happyendアミストラはかく語りき第37回目の映画は、安楽死をテーマにした映画「ハッピーエンドの選び方」です。

2009年の米国アカデミー賞外国語映画部門では、日本の「おくりびと」とイスラエルの「戦場でワルツを」とが激しく争っていましたが。

イスラエルで生まれた本作品は「おくりびと」に触発されたそうです。因縁を感じますね。

では、あらすじをどうぞ。(yahoo!映画より)

発明が好きなヨヘスケル(ゼーブ・リバシュ)は、妻のレバーナ(レバーナ・フィンケルシュタイン)と共にエルサレムの老人ホームに住んでいる。
ある日、彼は死の床にある親友マックスに、何とか自らの意志で穏やかな最期を迎えられる装置を発明してほしいと頼み込まれる。
人のいいヨヘスケルはレバーナの反対にも耳を貸さず、新たな発明に挑む。

「安楽死」を題材にといえば、どうしても重くなりがちですが。

適度なユーモアと登場人物たちのハートフルな姿が、重みを緩和していました。

安楽死の装置を発明した主人公ヨヘスケルの前に、評判を聞きつけた人たちが続々と訪れます。

余命わずかの配偶者から安楽死を懇願され、「とにかく一度、話を聞いてやってほしい」と。

生きる望みがわずかでもあるならば、激痛に耐える甲斐もあるでしょうが。

その望みを絶たれた上で、なおも苦しみを強いるのは、拷問のように思えてしまいます。

もう充分がんばった - ラクになることを望むのも無理はありません。

とはいえ、ヨヘスケルでさえ、出来れば依頼を受けたくはありませんでした。

いくら本人が強く望むといえども、人の命を奪うことには変わりありませんから。

 

安楽死を受け入れるかどうか-

本作品でも結論を指し示したわけではなく、私も結論が出ないままです。

ただ、安楽死を考えるならば、その前の段階で、一人ひとりが問い直さなければいけません。

 

「どう生きていくのか」

この問いなら、人生のなかで幾度となく問うことはあるでしょう。

ただし「肉体的にも心身的にも健康である」ことが土台にあり、その上で「どう」を問いかけるのです。

自分にとっての「生きているとは?」を問うことは、土台から見直すことになります。

 

時代や地域にによって違うのかもしれませんが。

現在の日本での「死」は、心停止、呼吸停止、瞳孔拡散で判断されるといいます。

ただ、こういった「死」と「生」の境目は、人間が定めたものです。

もっといえば、「死」というものを発見し、定義したのも人間なのでしょう。

もし、あるがままを観る存在がいるとしたら、

人間の動きが止まり、肉体が崩れ始め、土に還っていくプロセスは、途切れない一連の流れにしか見えないでしょう。

 

映画のなかでは、肉体の限界だけでなく、自我の喪失(認知症)についても触れています。

自分の命は自分だけのものではない以上、事前に意思を表明しても、その通りになるかどうかは分かりませんが。

自分にとっての「生きているとは?」

人生の集大成となる「最期のとき」はどうありたいのか

これらの問い、死生観は「どう生きたいのか」につながっていきます。

正解も正論もありません。

一生、結論はゆれ動くかもしれません。

それでも、考えることを諦めないこと、それが大事だと思います。

 

映画の邦題は「ハッピーエンドの選び方」

自分の意思で死を決めることは、必ずしも100%ハッピーエンドとは保証できませんが。

主人公が安楽死の現場に立ち会う場面は、心温まるものでした。

家族への感謝を最大限にビデオレターにおさめ、愛するパートナーにキスをし、友人たちに温かく見守られながら、穏やかな表情で旅立っていったのです。

感謝のきもちで人生を終えたこと、その人にとっては最良の選択だったと思います。

そして、自分ならどうありたいか・・・そのことを考えさせてくれた映画でした。