とあるコーチの物語~The story of a certain coach

第13話「とあるコーチの物語」

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会社の先輩からのコーチングに対しての侮蔑の言葉。

「へぇー、人の話を聴くだけで喜んでもらえるのかぁ」
「そんなことで喜んでもらえるなんて、楽でいいねぇ」

そしてこの言葉の背後に匂ってきた

「そんなことでクライアントの問題が解決するわけないだろう」
「甘ちゃんだな」
「世の中舐めてるのか?」

そして

「そんなことが仕事になるの?」
「へぇー、そんなことで食っていけるの?お・気・楽・で・いいねぇ」

という明らかに嘲笑している背後の意図。

この時ヒロは決意をした。

見てろよ!
絶対….絶対、コーチングで成功して見返してやる。
自分が言ったことを後悔させてやる!と。

だがこれがヒロが仕事を辞めた理由なわけではなかった。

ヒロはとてつもなく腹が立った。
だが仕事をすぐやめることはできなかった。

感情的になってそれで仕事を投げ出すなんてことは出来なかったし、
なにより毎月必ず安定して入ってくる収入を、
一時的な衝動で捨てるほどの勇気も覚悟もヒロにはなかったのだ。

確かある小説でこんな言葉を目にしたことがある。

人は冒険の旅に出たいと思いながらも、
今あるものを手放すことを恐れ、旅に出ることを選ばないと。

旅に出ない理由や言い訳はいくらでも出てくる。

表面的には本人は気づかない。

だが心の奥底では「だって今まで築いてきたものを失うなんて、
そんな恐ろしいこと、できるわけないじゃないか!」とか

「地位とか安定とか義務(役割)とか、そんなもの捨てられるわけないだろう!」

「そんな無責任なことなんて、やっていいわけないだろう!」とか、
そんな思いが次々に浮かび上がり、自らの旅に出ることを止めるのだ。

そしていつか自分の選択で選んだ旅に出なかったことを、
家族や周りの大切な人たちに
「お前たちのせいでわたしは旅に出ることが出来なかったのだ」と
心の何処かで恨むようになるのだそうだ。

ヒロも同じだった。

コーチングで独立しようという思いは何処かにあったけれど、
そして先輩の悪意に満ちた言葉に「見返してやる!」という思いも湧いてきたけれど、
それでも今ある安定を手放すことを選ぶことは、
とてつもなく恐ろしいことに感じていたのだ。

だが、ある時を境に、ヒロには自分がやっている仕事に、
意味を感じられなくなってきていた。

それはけして先輩のあの一言がそうさせたわけではなかった。

これまで何度かヒロに訪れていた「なにか満たされない気持ち」
それが再びヒロには訪れていた。

あんなに楽しかった仕事、あんなにやりがいを感じて充足した日々。

あの充足感を、生きがいとやりがいを、仕事に感じられなくなっていたのだ。

ヒロの会社が提供している人材育成セミナーの受講者の声。

「セミナーを受けた直後はすごくやる気に溢れ、
なんでもやれる気がするんですよ…..だけどそのモチベーションが続かないんです」

あの声を聞いたとき、受講してくれたその方の表情を見たとき、
「ああ、この人は本当に悩んで苦しんでいるんだ」とヒロは感じた。

だからコーチングと出会った時ヒロは、
これならセミナー修了者のフォローができる! と心の底から嬉しくなった

そして…徐々に…これまでの仕事に情熱を持てなくなってきた。

セミナーはしょせんセミナーじゃないのか?
セミナーだけでは変われない…そんなものを自分は提供しているのか…?
こんなことが自分のやりたいことなのだろうか…?

そんな思いがヒロの胸の内に生まれだしていたのだ。

コーチングを学んで、コーチングのすばらしさを知って、
だからセミナーが無駄なものだなどと思ったわけではなかった。

コーチングの方が優れている!

そんな短絡的な思いを抱いたわけではなかった。

だがもっと深いところから自分がやっていること、やってきたことに対して、
自分がやりたいことは本当にこれなのだろうか?
という思いが去来するようになったのだ。

そして営業会議で同僚タケシが
他のスタッフたちに向けたあの怒鳴り声….。

「なんだよ!お前ら! やる気あんのかよ!」
「数字をあげているのはヒロと俺だけじゃないかよ! お前らなにやってんだよ!」

タケシは一生懸命業績を上げようと懸命に、真剣に、夜遅くまで働いている。

あの頃のヒロにはまだ情熱が残っていた。

仕事が好きだった。
仕事が楽しかった。

だが今はもうそれもない。

「なんだよ!お前ら! やる気あんのかよ!」

タケシのあの日のあの言葉…
ヒロは自分があの言葉を今では浴びせられる側なんだと思うようになっていた。

自分は言われる側の人間なんだ…そうなってしまった….。

ヒロはいまや燃えかすのようだった。

そんなある日のこと。

突然大きな事件が起こった。

その日、突然仕事中にヒロの携帯が鳴った。

見ると実家の母の携帯からの電話だった。

「お父さんが倒れたの!」

電話口に母の声が聴こえてきた。

電話口の母は平静を装っていはいたが、
電話の声から母の緊張感、感じている不安な気持ちが伝わってきた。

ヒロは電話を持ったまま一瞬自分の身体が凍り付くのを感じた。

上司に事情を話し、ヒロは会社を早退すると、
父が搬送されたという病院に向かった。

病院に向かうタクシーの中で、
ヒロは胸のあたりに落ち着かない重苦しさを感じていた。

病院に着いて…受付に尋ね、父が運び込まれた病室を目指す。

エレベーターがなかなか降りてこない…まどろっこしい。

なにか質量を持った重苦しい感覚と、気がはやる落ち着かなさ。

ようやく病室にたどり着き…ベッドで横になっている父の姿を見たとき….。

ヒロは突然自分の胸に悲しい気持ちが湧き上がってくるのを感じた。

自分が悲しんでいることに気が付いた。

ベッドの上で横たわっているのは、ヒロの知っている父ではなかった。

目の前に横たわっているのは、ヒロの知らない人だった。

ヒロの胸に、全身に、なんとも言葉で表現できない
複雑な感覚と感情がひろがり、心はショックを受けているようだった。

ヒロには自分がなにを今感じてるのか、言葉にすることはできなかった。
すぐには言葉にならなかった。

言葉にならない気持ち、言葉にしたくてもいま言葉にならない気持ち、
それは心の奥底で感じていた気持ちのことだった。

それは

こんな…こんなに弱々しい父さんの姿…みていられない….とういうものだった。

それでもヒロは母の手前、気丈にふるまうようにしていた。

だが母や兄弟たちと離れ、病院の屋上に上がった時…。

街はいつもと変わらぬ活気ある姿をみせ、
空はあまりにも青く、太陽はあまりにもまぶしかった。

こんな健康的な青空の下、ヒロの心は深く、暗く沈んでいた。

あんな弱々しい父さんの姿…..。

青空の下、人々は活気を持って働いていた。

トラックを運転し、荷物を届ける人々。

鞄を抱えて走り回る営業マン

長財布を手にランチへと笑顔をたたえながら向かうOLたち….。

そんな健康的な世界から、自分だけが…
いや、自分たち家族だけが取り残されたような孤独と寂しさが胸に溢れてきた。

そうして….ふいにヒロは気づいた。

父さんの弱々しい姿……

オレ、今までなんで仕事を頑張ってきたのか…?

父さんに….父さんに見せつけてやりたかったんだ…オレはすごいだろうって。

公務員として黙々と淡々と働いてきた父

地味な仕事で、自分には何の面白みもなく見えていた仕事…。

そんな父に対して自分は、どうだ!オレはこんなにできるんだぞ!
こんなに生きがいとやりがいを毎日生きているんだ!
どうだ!父さん、父さんはこんな人生を生きていないだろう!

そうやって父に反抗してきたのだと初めて見えた。

ヒロは今まで自分が気づいていなかったということに気が付いた。

自分は父さんと闘っていたんだ….。

だがその父さんはあんなに弱々しくなって…。

ヒロは闘う意味を失ってしまった。

生きる意義を、モチベーションを失ってしまった。

その日から…ヒロの日々は灰色になってしまった。

なにをやっていても世界はモノクロにしか見えなかった。

味気ない、なんの感動もないものにしか見えなかった。

あの生きがいと充実感に溢れた日々は失われてしまった…。

それでも仕事に集中し、精を出し、自分を鼓舞し、
以前の自分をとり戻そうとしてもがいた。

懸命に以前の自分を取り戻そうとした。

だがダメだった…なにかが壊れてしまったのか。

もうダメだ….。

ヒロはある日、とうとう辞表を提出した。

もうここに自分の居場所はない。

仕事に意義を見出せない。

こんな気持ちでここいることなんてもう出来ない。

こんな気持ちでここにいるなんて申し訳なくてできない…。

会社の仲間たちはみな、とてもいい人たちだった。
だから仕事を辞めることにも、申し訳ない気持ちでいっぱいだった。

あの先輩を除いて。

だがすぐに退社はさせてもらえなかった。

ヒロの辞表が受理されたのは、それから3カ月後だった。


Quest_13: あなたの根本的な動機に気づいた体験は? 

これまでの人生を振り返って、あなたが自分の根本的な動機に気づいたときのことを思い出してください。

私たちを動かしている動機は、2種類あります。

すでに気づいている動機と、まだ気づいていない動機です。

ヒロは「成長したい」「向上したい」と思って、経営者や起業家と関わる仕事につきました。

しかし、根本的な動機は「父親に認められたい」というものでした。

もちろん、動機は地層のようにどこまでも深く続くので、これでおしまいというものではありません。

しかし、今気づいているよりも深い層にある、あなたを奥底で動かしていた根本的な動機に気づくと、人生が変わり始めます。

あなたの根本的な動機に気づいたときのことを、思い出してみてください。