とあるコーチの物語~The story of a certain coach

第17話「とあるコーチの物語」

Responsive image

ヒロはコーチとして独立して2年目に入っていた。

ここまでヒロのコーチングビジネスは順調だった。

勿論、壁にぶつかったり悩んだりすることは何度もあった。

だが波はあったものの、ここまでは順調と言ってよかった。
徐々にではあるが売り上げは伸びてきたからだ。

着実に収入は増えてきていた。

収入が増えるというのは純粋に嬉しいものだ。
自信もついてくる。

前年の上半期より下半期
下半期よりも今期というように着実に収入は増えていた。

ヒロは派手ではないが、着実に成長していく自分のビジネスに自信を持っていった。
手応えを感じていた。

が、2年目の春を迎えるころ、その流れに陰りが出始めた。

3月から4月に変わる頃、
多くのクライアントの契約が終了しだした。

全10回の契約
半年間の契約
年間契約

3月から4月に変わる頃、
多くのクライアントの契約が終了しだした。

この時期、契約の期間が終わる時期が集中した。

何名かのクライアントは継続契約を選んでくれたが、
契約を終了するクライアントがこの時期、たて続きに出始めた。

「お世話になりました」
「ありがとうございました」

多くのクライアントがそう言って離れていった。

「どうされますか? 継続されますか?」

契約満期を迎えるクライアントにそう声をかけるとき、
ヒロはだんだん重い気持ちになり始めた。

また断られるかもしれない
また契約を終了されるかもしれない

そう思うと胸は息苦しくなり、気持ちは重くなり、
実際、胃のあたりに重い鉛の玉でもあるかのような重さを感じ出した。

「ありがとうございました」
「今回で契約を終了することにします」

そう言われるたび、ヒロの胸はチクッと痛んだ。

「こちらこそありがとうございました」

ヒロはそう笑顔で応えていた。

顔は笑顔だったが内面は辛かった。

表情と気持ちが一致しない。

胸の奥は痛んでいるのに、顔では笑顔を作っている。

自分の心を偽って仮面をかぶっている。
そんな気持ちになって辛かった。

次々と…そうやってクライアントは離れ始めた。

3月…4月…5月

新規の契約はほとんど取れず、
逆に契約のクライアントは次々に契約を終え離れていく。

はじめ「なんとかなるさ」と自分にポジティブに言い聞かせていたヒロだったが、
だんだん自分の気持ちを偽れなくなってきた。

頭でどんなに前向きに考えようと、
心では胸を痛めている 悲鳴を上げている

そして….6月を迎えるころ収入は激減していた。

これでは…やっていけない。

そんな思いが…気持ちが…重圧となって、
ヒロの胸を締め付けはじめた。

もうポジティブに考えることなどできなかった。

どんなに気持ちを立て直そう、奮い立たせようとしても
心を偽ることはもう出来なくなっていた。

そして6月のある日、とうとうヒロはつぶやいていた。

「もうダメだ…」

窓の外は雨が降っていた。

空はどんよりと曇り、窓の外の青や紫の紫陽花に雨は降り注いでいた。

窓には無数の雨粒が流れていた。

ザーッと聴こえる雨の音はまるでノイズのように 無機質に聴こえいた。

鮮やかなはずの紫陽花の色も、
ヒロのこころの瞳にはモノクロの風景にしか映らなかった。

「もう…ダメだ…もう限界だ…」

ヒロはもう一度…ひとり部屋でつぶやいた。

ヒロの疲弊したこころはもう、本当に限界を迎えていた。

もうとても一人で抱え込んでいられなかった。

もう本当に限界だった。

その日の午後、ヒロはパートナーのМ美に電話をかけた。

「ごめん…今日うちで話を…聞いてもらえないかな」

ヒロはなんとか言葉を絞り出してそう言った。

「どうしたの?」

ヒロのただならぬ雰囲気を察知して、М美はそう問いかけてきた。

ヒロはしばらく沈黙した。

黙っていたくて沈黙したわけではなかった。
ただ本当に声を出すことが出来なかったのだ。

次に言葉を発したら、もうなにかが崩れてしまいそうだったのだ。

しばらく沈黙は続いた。

すると電話の向こうからМ美の声が聴こえてきた。

「わかった」
「今すぐ行ったらいい?」

М美はヒロの雰囲気と沈黙を察してそう言った。

「うん….お願い」

「わかった、じゃあすぐに行くから待っててね」

「…ありがとう」

ヒロは何とか声を絞り出してそう言った。

電話を切ると….また窓の外から聞こえる雨のザーッという音が、
無機質なノイズのように部屋に聴こえてきた。

ヒロは椅子に座ると窓の外を眺めた。

胸の息苦しさ、重苦しさを抱えて….。

雨の無機質な音が部屋に充満した。

ヒロはノイズのような無機質で無情な雨の音の中で一人…
世界から取り残されたような気持ちでいっぱいだった。

息をするのも辛い…そんな気持ちだった。

30分もたたないうちに家の呼び鈴の音が鳴った。

ドアを開けるとレインコート姿で、傘をたたむところのМ美が立っていた。

タクシーで駆けつけてくれたのだ。

「あがっていい?」

「うん…どうぞ」

ヒロはМ美を自室に招くと、向かい合った椅子のひとつをМ美にすすめた。

そしてМ美と向かい合った席にヒロはついた。

М美は心配そうな顔をしながらも、ヒロが何かを言い出すまでは黙って待っていた。

どうしたの?
なにかあったの?
というような言葉をМ美はかけては来なかった。

ヒロが自分から話すまで忍耐強く待ってくれた。

「あの…来てくれてありがとう」

ヒロはやっとの思いでМ美にそう伝えた。

「話を…聴いたらいいのね?」

「うん…頼む」

「わかった、聴くね」

М美はそう言った。

そしてまたしばらく沈黙が続いた。

ノイズのような無機質な雨の音が二人のいる空間をしばらく満たしていた。

長い沈黙が続いた。

そうして…ヒロは口を開いた。

「オレ…もうダメだ….」

やっと出た言葉はそこからはじまった。

そしてまたしばしの沈黙….。

М美は黙って…静かにヒロの言葉を待った。

「売り上げがどんどん下がっちゃって…」
「オレ…いけると思っていたのに…」

「オレは有頂天なだけだった…」
「自分はできる、自分は優秀だ…そう思っていただけだった」

またしばしの沈黙….

そして….無機質なノイズのような雨の音に紛れて….ヒロの嗚咽が聴こえてきた。

ヒロは…泣き崩れた。
男だけど….男だけど…涙があふれてきた。

声を殺しながらも涙を流した。

声を殺して必死に耐えようとしたが、嗚咽は耐え切れず漏れ出した。

とめどなく涙があふれた。

バリバリにポジティブだった自分。

人の痛みをわかっているようで、自分の痛みに気づいていなかった自分。

優秀であることが偉いと思っていた自分。

そんな自分が今、ここで自信を失い泣き崩れている….。

М美は黙って聴いてくれていた。
ただ黙って傍にいてくれていた。

なんのアドバイスもせず、なにも言わず、ただただ黙って傍にいてくれた。

ただ黙って一緒にいてくれた。

2時間近い時間だったろうか…
М美はただヒロの話を黙って聴き、ただ黙って一緒にいてくれた。

泣いて…泣いて…泣いて…気持ちを打ち明けて
本音を聴いてもらった。

気持ちを聴いてもらった。

М美は最後まで黙って聴いてくれた。

なんの助言もアドバイスもしなかった。

なんの励ましの言葉もかけなかった。

ただ…ただ…黙って一緒にいてくれた。

涙が枯れたころ…ヒロは「ありがとう」と言っていた。

「ありがとう」
「黙って聴いてくれて」

ヒロがそう言うと、М美はそっと手をヒロの手に重ねてくれた。

ヒロの手にМ美の温かさが伝わってきた。

М美はなんの助言もアドバイスもしなかった。
なんの励ましの言葉もかけなかった。

ただただ黙って聴いてくれ、ただただ一緒にいてくれた。

そうやってヒロの気持ちを「うけとって」くれていたのだ。

ヒロは…誰にも言えなかった気持ちを吐露した。

今までけして認められなかった気持ちを、
今までけして自分では認められなかった思いを…気持ちを認め、本音を吐露した。

もうダメだ!なにもかもダメかもしれない!

自分の内にあったそんな認めたくなかった思い、気持ち、
恐れ、不安、いたたまれなさ。

それを認め、そして他者に話していた。

М美は何も言わなかった。

いいも 悪いも OKの出せる部分も 出せない自分も。
黙って受け止めてもらえた。

今までけして認められなかったことを認め、
受け入れてもらった時、ヒロははじめて楽になっていた。

この出来事はヒロを変えた。

すべてにOKを出せたわけでは勿論なかった。

だが…自分の影の部分があっていいのだということ。
影の部分で認めていなかった弱さを…受け止めることで、
影の部分と自分とがひとつになる。

М美はなにも言わずただ黙って一緒にいてくれ、
ただ黙って聴いてくれた。

最後まで何も言わなかったし、話し終わった後も何も言わずにいてくれた。

後になって知ったのだがМ美がヒロにとってくれたのは、
「スポンサーシップ」と呼ばれるものだった。

人は黙って聴いてくれる?と仮に言ったとしても、
本当にただ黙って聴いてくれる人はなかなかいない。
本当にいない。

すぐに励まそうとしたり、助言やアドバイスをしたり、自分の考えを話し始める。

本当に傾聴ができる人は本当になかなかいないのだ。

だがМ美はそれをしてくれた。

この出来事は…経験はヒロにビジネスの再生の「波」を受け入れさせてくれた。

波は上がるときもあれば下がるときもある。

寄せる波もあれば引く波もある。

ヒロはずっとうまくいっていないとダメだと、それまで思い込んでいた。
売り上げが下がるということは悪だと思いこんでいた。

それがずっと右肩上がりでないといけないという、強迫観念から解き放たれた。

繰り返す循環…そう循環なんだ。

循環し、交互にやってくるものなんだなと受け入れられた。

強迫観念から解き放たれて、ヒロは一喜一憂することが減った。

勿論、全く無くなることなどなかったが、
でも一喜一憂はずいぶん減って楽に過ごせるようになった。

なにか脅迫的な夢から、悪夢から、目が覚めたようだった。

売り上げが上がるとやはり手放しで嬉しい。

逆に売り上げが下がると「うわ、どうしよう」
そんな心配は当たり前のように出てはくる。

だがその両方を受け入れている状態。
それは二人の自分がいるような感覚だった。

一喜一憂する存在は相変わらずいる。

だがそんな自分を微笑みながら信頼している自分もいる。

いろんなことがこれからも起こるだろうけど、
大丈夫なんだ 守られているんだ 支えられているんだ。

そんな感覚がそのあと、養われていくことになった。

フラットには絶対にならない。

波はやってくる 嵐はやってくる。
だがどんなに嵐で海が荒れようが、海そのものは変わらない。

海という存在が無くなることはない。

サナギが蝶になるとき、サナギの中身である芋虫は
神経線維だけを残して、ドロドロに溶けて液体に分解されるという。

そうして蝶という全く違う存在へと破壊と創造がサナギの中では行われる。

だが芋虫がドロドロに分解されようと、外のサナギという殻が支えてくれるのだ。

ヒロはこうして再生の道を自分のペースで歩み始めた。


Quest_17:あなたの話を心から聴いてもらえた体験はありますか? 

ヒロはどん底の状態で、M美に話を聴いてもらいました。

一般的には、落ち込んでいる人が元気になってもらいたいという気持ちから、励ましたり、問題を解決するための具体的なアドバイスをするかもしれません。

けれども、M美はヒロを励ましたり、アドバイスをしたわけではありませんでした。

しかし、ただただ聴いてもらえたことによって、ヒロは今まで認められなかった自分の影の部分を受け入れることができ、どん底の状態から抜け出す力を取り戻すことができたのです。

このように、自分の話を本当に聴いてもらえたとき、人は大きく変わります。

あなたは誰かに心から話を聴いてもらえた体験はありますか?

あるいは、誰かの話を心から聴いた体験はありますか?

少し時間を取って、思い出してみてください。