とあるコーチの物語~The story of a certain coach

第8話「とあるコーチの物語」

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ヒロはこの日、環状線の車窓から、窓の外を流れる街の景色を眺めていた。

申し込みをしていたコーチングスクールの、
説明会会場に向かっていたのだ。

ヒロの胸にはワクワクとちょっとした緊張があった。

期待にワクワクしながらも、同時にちょっとドキドキして、
胸の真ん中辺りに、言葉では何とも表現しづらい、
こそばいようななんとなく落ち着かないような感覚があった。

それは遠足の前日の夜、
なかなか寝付けない時に感じるような感覚のようであり、

また、初めて学校に登校する日、
今から知らない人たちと会うときに感じる感覚のようでもあった。

ワクワクとちょっとした緊張。

そんな感覚をヒロは胸に感じていた。

この日、ヒロにはひとつ、明確に決めていたことがあった。

それはコーチングスクールに申し込むということを、
もう決めているということだった。

説明会にはいくが、説明を聞いてから
申し込むかどうかを考えるつもりはなかった。

もう申し込むことを決めているのだ。

間もなく次の駅に到着すると車内アナウンスが流れ、
電車は減速を始めた。

同時に窓の外の流れる景色もだんだんとゆっくりになる。

電車が減速を終え、駅に到着すると、
一瞬間を置いてプシューという音ともにドアが開いた。

ヒロはホームに降り立つと、案内板で目当ての改札の場所を確認し、
目的の地に向けて歩き始めた。

改札を抜け、鞄からプリントアウトしてきた案内地図を取り出し、
地図の案内に従い、会場への道を歩を進める。

降りた街は下町っぽい街だった。

商店が並び、たくさんの飲食店が並んでいた。

ランチをタイムを過ぎて、
それぞれの店がひと段落は付いていたが、
ちょっと遅めのランチの客がいるのだろう。

飲食店からは美味しそうなにおいが漂っていた。

きっと夕暮れ時には会社帰りのビジネスマンたちが集まってくるのだろう。

だがヒロはそんなものには目もくれず、
目的地を目指して黙々と歩みをすすめた。

目的地に向かって、つまり目標に向かって、ただ目標だけを見て、
ただ黙々と、淡々と歩みを進める。

そう、これは目標だけにフォーカスしているときのあの感覚だ。

しばらく歩くと、貸会議室を抱える立派なビルが現れた。

ここはヒロの会社でもセミナーでよく使う場所だ。

見慣れた玄関口を通り、
開催イベントの表示板で目的の会場の階を確認する。

エレベーターに乗り、目当ての階のボタンを押す。

ドアが閉まり、エレベーターが動き出すと、
1…2..3…と各階の表示が変わっていく。

しばらくしてエレベーターは停止すると、
チーンという音ともにドアが開いた。

会場はちょうど開いたドアの向かい側だった。

会場となる会議室の前には受付テーブルが置かれ、
女性スタッフが受付として座っていた。

「こんにちは」

受付の女性がヒロの顔を見て声をかけてきた。

「こんにちは」

ヒロも挨拶をした。

「コーチングスクール説明会においでですか?」

「はい」

「それでは、こちらにお名前をお書きください」

ヒロは言われるままに受付の書類にサインをし、手続きをした。

資料を受け取り、会場へと入る。

会場にはすでに複数の参加者が集まってきていた。

こういう会場に来ると、一番前の席に座る者、後ろの方に座る者、
あえて真ん中あたりの席につく者、

また真ん中あたりでも端の方の席につく者、
そして後ろの方で目立たないように座る者がいるものだ。

みなそれぞれに自覚しているかどうは別として、
それぞれの心理状態によってそれぞれ思い思いの席を選ぶ。

ヒロは前の方の席をみつけて座った。

受け取った資料を広げ、目を通す。

カラー印刷された資料にはあいさつ文が書かれ、
自分たちがどんな思いでスクールを運営し、
どんな人たちにどんなものを届けたいと思っているか、
そしてどんな社会を創っていきたいかについて書かれていた。

セミナー事業にずっと携わってきたヒロには見慣れた、
この会社の理念、存在意義、ヴィジョンが綴られていた。

「その人が求める答えはその人の中にある」

ミヤモトが忘れていったあの本の、あの一行の言葉を見たとき、
あの一行の言葉はヒロの存在意義になり、
目指すべきヴィジョンになっていた。

あの一行を見たとき、ヒロの心は深いところでもう決まっていたのだろう。

ヒロが資料を眺めていると、ほどなくして説明会が始まった。

説明会では会社概要に始まり、ヴィジョンの説明、
そしてスクールではどんなカリキュラムが、
どれだけの期間で、どのように実施されていくのか、
どんなサポートがあるのかなどが丁寧に説明された。

ヒロは要所要所でメモを取りながら真剣に説明に聞き入った。

50分ほどの説明が続いただろうか。

説明がひと段落つくと「今からお申し込み受付の時間になります」
「お申し込みされる方は、会場後方の受付テーブルにてお申し込みください」
とのアナウンスがあった。

アナウンスが終わるや否や、ヒロはスッと立ち上がると、
受付テーブルへと向かった。

会場には50名ほどの参加者がいただろうか。

すぐに立ち上がったのはヒロだけだった。

一瞬何人かの参加者たちが、
申し込みテーブルに向うヒロに視線を向けた。

他の参加者たちは申し込むかどうか、今から考えるようだった。

ヒロはすぐに立ち上がり、申し込みテーブルに向かった。

そしてすぐに手続きを始めた。

なぜならヒロはもう、決めていたからだ。

ヒロが手続きを半ば終えたころ、
ようやく何人かの参加者たちが受付テーブルに向かい始めた。

受付テーブルに向かって立ち上がる者、
資料に目を落とし、どうするか考えている者、
誰かに背中を押してもらうまで判断を保留にしている者
ただただ悩んでいる者。

いろんな者たちがいるようだった。

受付の手続きを終えて席に戻ったヒロは満足だった。

なぜなら今日の目的を完了したからだ。

ヒロは説明会を聞きに来たのではない、申し込みに来たのだ。

後半の説明は、まだ迷っている人たち向けの説明だったように思う。

ヒロは目的を終え、これから自分が進む世界のことを反芻するように
残りの説明会の時間を過ごした。

後半の説明が終わると、再びお申し込みの時間がとられ、
また何人かの参加者が申し込みテーブルに向かい、手続きをした。

そうして夕刻が近づくころ、説明会は終わった。

説明会が終わると、ヒロは資料とノート、
ペンを鞄に詰め込み、席から立ちあがった。

ヒロが片づけを終え、会場を立ち去ろうとしていると、
受付をしていた女性が話しかけてきた。

「本日はありがとうございました」

女性は深々とお辞儀をして挨拶をしてきた。

「あ、いえ、ありがとうございました」

「驚きました」

「え?何がですか?」

ヒロは思いもかけなかった女性の言葉に思わず聞き返した。

「いえ、説明が終わってすぐに立ち上がって、
申し込みテーブルに向かわれたでしょう?」

「あ…はい」

「そんな方、はじめて見たものですから」

「そう…ですか」

ヒロはそう言われ、なんだか嬉しい気持ちになった。

自分が向上心のある、前向きな人間だと評価されたような気がして、
ちょっと嬉しい気持ちになった。

「ではスクールでお待ちしていますね、頑張ってください」

「ありがとう」

会釈をするとヒロは会場を後にした。

これから新しい人生の展開が始まる。

これから自分が本当にやりたかったことをして生きる人生が始まる。

そう思うと心がうきうきしてきた。

会場の外に出ると、街はちょうど夕暮れ時にかかっていた。

空を見上げると街のビル群の背後には、
濃い群青色の空に紅と紫のグラデーションに染まった雲が美しく広がっていた。

見事な色彩の夕焼け空の美しさに、ヒロは空を見上げたまま立ち止まった。

そういえば、こんなふうに夕焼け空を眺めるのはどれくらいぶりだろう。

ヒロはしばしの間、見事なグラデーションに彩られた空を見つめていた。

そうして再び駅への道を歩み始めた。

夕焼け空の美しさを眺めながら、駅へ向かって再び歩を進めていくと、
例の飲食店街から美味しそうなにおいが漂ってきた。

いいかおりに思わずお腹がぐぅ~と鳴る。

思わずヒロは笑顔になった。

「よし!うまいもんでも喰って帰るか!」

鮮やかな夕焼け空の下、ヒロの歩は軽かった。


Quest_08:あなたが迷いもなく決めていたことは何ですか?

何かをするかしないか、迷った末にどちらかを選ぶというのではなく、迷う余地がなく、最初からすることを決めていたことが、これまでの人生であったでしょうか?

もし、そのときのことを思い出すことができたら、それを決めたときの状態や感覚を思い出してみてください。

強い決心をして、決断したというよりは、未知のことであったとしても、それを選ぶのが普通で当たり前のことだという感覚があったかもしれません。

そういう体験が浮かばなくても構いません。

人生には、導かれるように自分の道を歩むときがあるということを頭の片隅に置いておいてください。