とあるコーチの物語~The story of a certain coach

第12話「とあるコーチの物語」

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カランカラン…..。

店の入り口が来客を告げる鐘を鳴らした。

「〇〇さま、いらっしゃいませ」

「こんばんは」

ヒロはカウンターの席に一人つくと、
マスターに挨拶をした。

以前ミヤモトに連れてきてもらったあのバーに、
ヒロは今日は、ひとりでやって来た。

ヒロが席につくと、マスターは
「どうぞ」と熱いおしぼりを渡してくれた

「なんになさいますか?」

ヒロは少し考えて「ジンリッキーを」と答えた。

手渡された熱いお絞りで手をぬぐいながら、
ヒロはマスターがカクテルを作る様子を眺めた。

スムーズで無駄がなく、メリハリある美しい動き…。

スムーズなのに素早く、グラスやボトルを扱っていく。

静かでリラックスしていて、なのに緩みのない、
ピンと張った糸ような、静かな緊張感…いや鋭い集中か?

その動き、所作の一つ一つが美しく気品が漂っていた。

カクテルを作るマスターのその姿には、
なにかが宿っているような、静かな威厳とたたずまいがあった。

ヒロはその雰囲気と動きの美しさに思わず見とれていた。

「お待たせしました、ジンリッキーです」

カクテルが目の前に出されてヒロはハッと我に返った。

以前テレビか何かでショーのようにカクテルを作る
バーテンダーの動画を見たことがあったが、
その時見たのはまさにショーという感じだった。

だがマスターの動きはそれとは根本的に違っていた。

「あの,,,なんだか凄いですね」

「動きが美しいというか、気品が漂っているというか、
それでいて威厳があるというか….」

「これまでもバーでお酒を頼んだことはありますが、
マスターのような雰囲気は初めて感じました」

ヒロは率直に、素直に感じたことを言葉にした。

「ありがとうございます」
「ホテルのバーやオーセンティックなバーであれば、
そのような感覚はこれまでも感じられたことはあると思いますよ」

「ただ、これまではそこに注意を払ってこられなかっただけだと思います」

「そうなのかな、今まで行ったことのあるバーは、
どちらかというともっと気楽というか、
ラフな感じの店だったものですから…だからその違いかと思いました」

マスターはヒロの言葉にニッコリと笑った。

「どうしたら今しがたのような雰囲気が出せるんですか?」

ヒロの問いにマスターは軽く右手で顎に手を添え、
一瞬宙をみつめて…そしてこう言った。

「集中でしょうか」

「集中….ですか?」

「ええ、人は一つのことに高く集中しているとき、
そのようなモードに入ると言われています」

「集中….ということはゾーンとかフローとか呼ばれるものですか?」

ヒロの問いにマスターはまた一瞬宙を見つめてからこう言った。

「ゾーンとかフローの状態だと思います」
「そしてそこから生まれるものがあるんですよ」

「そこから生まれるもの?」

ヒロはなんのことだろう?と思った。

「お客様は茶道を体験されたことはありますか?」

「茶道ですか?…いえ、残念ながら茶道の経験はないです」

「茶道をされている方なら何人もの方が、
体験されたことがあるとおっしゃるのですが、
茶道で茶器を扱う所作をしている最中、ふと気が付くと、
自分でも驚くほど奇麗な動きをしていることに気づかれます」

「そのときとても心は静かで、所作は美しく、
全くブレない軸、深い満足と威厳が自分の中から
静かに湧いてくるとおっしゃいます」

「へぇー….」

ヒロはふと子供の頃、剣道を習っていた時の自分ことを思い出した。

剣道は親から言われて習ったもので、
正直練習に通うのは好きではなかった。

防具をつけていても竹刀で殴り合うのは痛いし、
できることならサボりたかった。

だがそんな剣道の中でもヒロの好きなものがあった。

竹刀をスッと構えたとき、スッと心が静かになった。

心が静まり、軸が定まり、静かな充足感がヒロを包んだ。

そのことを思い出した。

今から思えばあれは不思議な体験だった。

子供の頃は意識したことがなかったが、
竹刀をスッと構えたあの瞬間、黙想で静か目を閉じたあの瞬間、
心がスッと静まり、軸が定まり、静かな満足感がヒロに訪れていた。

あれはマスターの言う集中だったのだろうか…。

「お客様もきっとお仕事で集中されているとき、
その体験をされていると思いますよ」

「え?」

マスターの意外な言葉にヒロはちょっと驚いた。

「そうでしょうか? 覚えも実感もないけれど….」

ヒロの言葉にマスターはまたニコッと笑顔を見せた。

なんだろう? ミヤモト先輩にもたまに似たような感覚を感じるけど、
マスターもなんだか不思議な人だな….。

僕が自分では気づいていなことが、なにか見えているんだろうか…。

「ところで、お仕事の調子はいかがですか?」

マスターの言葉に、あ、そうだった….とヒロは思った。

この店にはミヤモト先輩と来た時以来だったんだ…。

「あの…僕、仕事を辞めたんです」

「そうなんですね」

マスターは再びニコッとして、それ以上何も聞かなかった。

あれ?そこからは何も聞かないのかな?

…と一瞬ヒロは思った。

そして一瞬、間をおいて、こう思った。

きっと本人が話すまで余計なことは聞かないんだろう。

確かに…本人が話したければ自分から話すはずだもんな。

あれから、あの日から半年の月日が経っていた。

半年前のあの日…..

「へぇー、人の話を聴くだけで喜んでもらえるのかぁ」
「そんなことで喜んでもらえるなんて、楽でいいねぇ」

あの日、会社の先輩から言われたあの悪意ある一言。

先輩の表情に浮かんでいた薄ら笑い。

言葉には発さなかったが、ヒロには先輩の心の声が聴こえてきた。

「そんなことでクライアントの問題が解決するわけないだろう」
「甘ちゃんだな」
「世の中舐めてるのか?」

そしてヒロにはこうも聴こえてきた。

「そんなことが仕事になるの?」
「へぇー、そんなことで食っていけるの?楽でいいねぇ」

あの日、ヒロは決意した。

見てろよ!
絶対….絶対、コーチングで成功して見返してやる。
自分が言ったことを後悔させてやる!

そうしてヒロは紆余曲折を経て、仕事を辞めたのだった。

「え!お前仕事辞めるの!?順調な仕事を!?
そ…そんなことで!?」

学生時代の友人たちはヒロの決意を理解してくれなかった。

友人たちは口々に「バカなことはやめろ」と言った。

当然だろう。
安全な世界からなんの保証もない世界へ飛び出すのだ。

今までのキャリアを捨て、安定を捨て、安全を捨てるのだ。
誰もが止めるだろう。

だがヒロにはコーチングが人の役に立つ、
貢献できる素晴らしいものだという強い思いがあった。

そして紹介で何名かの契約も貰えるようになっていた。

だからこれでやっていける、
いや、やっていくという強い思いがあったのだ。

そして、今のところヒロのコーチングの仕事は、
収入は減ったとはいえ、順調だった。

続けていればうまくいく。
そう自分に言い聞かせていた。

「すいませーん、ウィスキーのおかわりをください」

ボックス席の客の呼び声に「ちょっと失礼します」とマスターはヒロに告げ、
会釈をすると対応しに行った。

ヒロはマスターに仕事を変えた経緯を話そうと思ったので、
ちょっと残念に思った。

「少し待って話をきいてもらおう」

そうひとりつぶやいて、ヒロはふと自分に気が付いた。

そう…自分は誰かに話をきいてもらいたかったのだ。

友人たちはみな、仕事を辞めるのを止めたし、
なかには「がんばれよ!」と激励してくれた友人もいた。

パートナーは「あなたがやりたいことをやったらいいよ」と言ってくれた。

だけど…誰かに黙って聞いてほしいと何処かで感じていた。

なんの意見も言わず、批評も評価も判断もなく、
ただヒロの話を誰か黙って…ただ黙って聞いてほしいと感じていたのだ。

そうして自分はここに来たのかもしれない…そうヒロは思った。

ヒロは飲みかけのグラスに目を落とした。

無数の炭酸の泡がグラスの底から…何処からともなく立ち現れ、
氷やライムの表面を無数に覆いながら、ポツポツと消えていくのを眺めた。

「人が大いなる決断をするとき、門番が現れますよね」

思いもかけない声が聴こえて、ヒロはカウンターの少し離れた席に目をやった。

そこにはあの紳士が..ミヤモトに連れられこの店にやって来たあの日、
この店で見かけた紳士が座っていた。

あの日と同じくキレイに揃えられた白髭、キレイにセットされた白髪、
キレイにアイロンがけされた白いシャツに、黒いお洒落なジャケットを着た紳士。

そこにはさっきマスターに感じたような静かな気品と、
柔らかで静かな威厳が漂っていた。

そして…なんと表現したらいいのだろう…
透明な清潔感というか、神聖さのようなものを何処か感じさせた。

「あの….今の言葉…」

気が付いたとき、ヒロは紳士に話しかけていた。

自分でも声をかけたことに驚いた。
気が付いたら声をかけていたのだ。

ヒロの言葉に紳士はちょっと驚いた様子でこちらを向いた。

「あの、今の言葉は?」

ヒロの問いかけに紳士な一瞬目を丸くして…そしてニッコリ笑った。

「いや、失礼、詩の本を読んでいまして」
「思わず声に出していたようです」

紳士は少し申し訳なさそうに会釈をしながらそう答えた。

紳士の笑顔を見て、ヒロはためらいながらも紳士に質問することにした。

「今の言葉…いえ、詩はどういう意味なのですか?」

ヒロの問いかけに紳士は、一瞬ほんの少し驚いた様子を見せた。
そしてにっこりと笑った。

そうして手元の本とウィスキーグラスに目を落とすと、
なにかを懐かしむような優しい笑顔を浮かべてこう言った。

「人生には大きな転機が訪れる時があります」
「そして大いなる決断をするときがやってきます」
「そのとき人は門番に出会うのです」

「門番?」

「お前は本気なのか?」
「本気でその道を進むのか?その覚悟があるのか?と試されるのです」

「門番….」

紳士の言葉に、ヒロの脳裏には一瞬、
あの日、ヒロに見下したような言葉を投げ掛けた先輩の顔がフラッシュバックした。

あの先輩が門番?

自分が本気でコーチとして生きていくのかを試すために現れた門番?

…ならば彼は自分をサポートするために現れたというのか?

バカな….。

ヒロは自分の頭に浮かんだ考えを否定し、そして苦笑した。

そんなバカなことないよ。

そうヒロは思った。

「あの…あなたは以前もここで…」

紳士に話しかけようとしてそこまで言いかけたとき、
紳士がいた方を見るとその姿は消えていた。

そこには…カウンターには、紳士が飲んでいた
空のウィスキーグラスだけがあった。

…店内にはサキソフォンのスローなジャズが流れていた。

そして…静かに語らう客たちの話声が聞こえてきた。

ヒロは一人、カウンターにいた。

今の一瞬…紳士と話していた一瞬、
まるで時間が止まっていたかのような不思議な感覚を感じた。

まるで音楽や人が話す声も止まっていたかのようだった。

ヒロは一人、カウンターにいた….。

         


Quest_12: 何がキッカケとなって、あなたは大きな決断をしましたか? 

これまでの人生を振り返って、あなたが大きな決断をしたときのことを思い出してください。

その決断をするキッカケとなった出来事は何でしょうか?

そして、そのキッカケとなった出来事が起きたとき、あなたは何を「断つこと」を「決めた」でしょうか?

私たちは、変化を求めながら、現状を維持することも求めます。

それゆえ、思うように変化することができないのもまた事実です。

もちろん、変化することが良いことで、現状維持が悪いわけではありません。

しかし、本当に変わるときは、「変わりたい」と思っているだけではなく、「変わる」と決めたときです。

どんなキッカケが、あなたに決断をもたらしたのか? 思い出してみてください。