思い込みが現実に浸み込んでゆく

「私は成功して、欲しいものは手に入れてきた」

そう豪語する知人がいました。

まぁ確かに、そうとも言えなくもないのですが・・・。

「えっ、それを成功って堂々と言えちゃうの?」

あまりもの屈託のなさに周りも面食らってしまい、頷くタイミングをも逃しました。

 

別の知人はこうです。

傍からみるともう充分に成功してると言えるにも関わらず、本人は頑なまでに認めません。

いえ、まだまだ・・・と首も手もパタパタ振りつづけます。

まぁ、他人がとやかく言うことでもないですが。

そもそも成功ってものには、明確な基準はありません。

どれだけ、他人から言われても

あるいは 誰からも言われなくても

数値として結果が出ていても そうでなくとも

本人にとっての成功か否か、線を引くのはあくまでも本人です。

ある意味、言ったもの勝ちでしょう。

ただし、です。

成功だと言い切る知人は、全くもって傲慢ではありません

成功を装う、あるいは成功と言い聞かせてる風でもないのです。

曇りひとつない瞳には、揺るぎがありません。

一つだけ確信がもてました。

本人は、心からそう思っていることを。

 

「私って、何をやっても標準以上のことができちゃうの。」

「私はこうこうこうだから、うまくいかない。」」

これらの言葉に、絶対的な真実はありません。

本人にとっての「真実」があるのみです。

「思いこみ」

そう言ってしまえば、身も蓋もないのですが。

そこには、決してあなどれないパワーがあるのですね。

冒頭の知人を、最初こそ私は斜に構えてみてましたが。

純粋な思い込みは、現実をも浸潤するのでしょうか。

そして、人からも「そういう人だ」と思わせるのでしょうか。

あれやこれや、大小問わない成功を積み重ねていったのです。

 

同じ程度の実力や才能を持つ二人がいたとして

花の開き具合が異なること、往々にしてあるでしょう。

その違いの一つが、ココにあるかと思います。

「私はこういう人間だ」

「私なら出来る」「私には出来てない」

セルフイメージ - 自分に対してどんな思いを刻み込むか

どんな自分を、周りに世界に 刻みこむか

それは、砂時計のように

小さな砂粒が潜在意識を満たし、ときに現実へとひっくり返るのではないでしょうか。

 

朝、目が覚めて、一瞬の空白のあと

記憶が立ち上がり、いつもの自分へと服を着せていく その前に

どんな言葉で、自分を決めてきたのか

それは事実といえるのか どうとでも解釈できることなのか

日々の小さな砂粒を、見つめるときかもしれません。