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つかの間しか遺らない芸術

長い年月の風雪に耐え、今も多くの人を驚嘆させるもの

そんな芸術の多くは資産として認識され、天井知らずの値がつくものもあります。

世界中のどこにいても、同じ月を眺めるように

どの時代に佇んでいても 同じ絵画を愛でることができます。

資産価値はともかく、後世まで遺る作品を一つでも生み出したい・・・それは芸術家たちの切ない願いでしょうか。

しかし永遠にどころか、つかの間しか遺らないものをあえて素材に選び、心血注いで創り上げる芸術があります。

 

鳥取砂丘にある、砂の美術館。

ここに展示されているのは、砂像と呼ばれる、砂と水だけで作られた彫刻です。

毎年テーマが変わるのですが、今年のメインは北欧神話でした。

マッチ売りの少女、サンタクロース・・・

触れるとすぐに崩れそうなほど繊細な、砂という素材で、一つ一つの作品がどれも精緻に創られています。

肌さわりまで伝わる布の質感や、今にも喋りだしそうな生き生きとした表情など・・・砂と水だけで、ここまでリアルさを体現できるものか・・・圧倒としかいいようがありません。

どれだけ時間をかけて、丁寧に創り込んだとしても、です。

性質上、資産としてカタチでは残る芸術ではなく、展示期間をすぎるとあっけなく解体されます。

セミのよう 刹那に羽ばたいて すぐ土に戻っていく・・・

その砂像を目にするのは、たまたまその期間に出向いた人たちだけ

二度と再現できない、一期一会に永遠の美しさを刻み込む・・・その潔さは私の心を震わせました。

 

砂像というものは 名もなき人たちの生をそのまま表すかのようです。

自分が生きた証は 後世まで遺らなくても

それでも生涯かけて、砂像を彫り続けます。

砂が崩れそうになっても 思い通りにならなくても

触れ合ったひとたちだけが 世界でたった一つの有り様を目にするのです。

サンタクロースは 柔らかい眼差しを降り注いでくれました。

生きること それこそが 芸術そのものであるのだと、と。

 

 

性格なんて一言ではいえない

「お子さんの性格は?」

先日から始めた習いごとの申込書を前に、うーんと唸ってしまいました。

それこそ10年以上、寝食をともにする存在ですが・・・。

「自分の子供の性格が分からないって言う人がいたけど、そんなんありえないよね~。」

かつて友人から同意を求められたときも、ハハハと曖昧にごまかしました。

子どもの性格って、そんな一言で言い切れるものなの?

あの時の霧がかったモヤモヤは、5年以上経っても消えずにいます。

 

もちろん日常でも問われますので、軒先にこたえを置いてあります。

「負けず嫌い」だの「時々おっちょこちょい」だとか。

でも、それは私が目につきやすい、娘の側面です。

学校での顔、大勢の人前ではどうか、仲の良い友達の前では・・・と。

各シーン、関わる人によって、表に出る性格も変わって当然ですから。

 

だいたいにおいて、です。

私は自分の性格ですら、分かりません(断言ッ)

「元気」「きっちりしてる」「右脳的だね」

ソレもそうなのですが、天の邪鬼なワタシが釈然としないのです。

「いや、私ってよく落ち込んでるし」
「日頃、ヌケてるし」
「ロジカルなところも強いっ!」

しかし「暗い」「ドジ」「左脳的」とレッテル貼られても、自分の一部が切り取られたにすぎません。

相反するパーソナリティ、野原に咲く花々のよう咲き乱れてます。

おおよそにおいて、人見知りは強い私です。

そう語った翌日、初対面の人と臆することなく話す自分がいたり。

昨日は気が弱くて言い出せなくても 今日は負けん気が盛んなこともあります。

「あれ? いつもの朝比奈さんと違う・・・おかしい・・・」

そう戸惑われても、答えようがないときもありますが・

どの目が出ても サイコロには変わらないように

誰しもが、一つの断面だけでは言い切れないのです。

 

一人の人間の内面世界は、多様性に満ちてます。

いきなり丸呑みしようとすると、消化不良を起こしかねません。

だから食べやすいように、一口サイズで切り取ります。

その一口で、全部を言い切れる気になってしまいますが・・・

多様性を多様なまま、口に入れるとどうでしょうか。

甘みや口当たりの良さのなかに、混じっています。

よく噛むと舌がヒリヒリする、ほろ苦いスパイスが。

 

「あの人の性格は?」

本来、ひと言で表現できるものではないでしょう。

さらに噛めば噛むほど、思いもよらない隠し味がどんどん出てきます。

「あんな人だと思わなかった・・・。」

よくありがちな幻想を抱くのは、一口サイズの功罪ではないでしょうか。

 

 

自己流でしか生きることはできない

なりたい大人に、なれなかった人たちへ

このキャッチフレーズが まるで人ごとに思える人は どれだけいるでしょうか

「万引き家族」でパルムドールに輝いた是枝裕和監督による、2016年度に公開された作品

「海よりもまだ深く」

たった一度、文学賞を取ったきりの「自称小説家」の良多が主人公です。

すっかり貫禄がついた阿部寛さんが、うだつの上がらない中年オヤジを見事に演じています。

沈殿する日常のなか、浮上する機会は何度か訪れたのです。

小説の取材という名目で勤める探偵事務所の所長から、そろそろ本腰をとお誘いが・・・

漫画の原作を書いてみないかとオファーが・・・

別れた奥さんとのヨリが戻るかも? のチャンスが・・・

よくある映画なら、今までの苦労が実を結ぶ、逆に過去と決別して、新しい人生へと歩む、というカタチで成長物語を描くのが定石ですが。

「こんなにもビフォーアフターがない映画とは・・・。」

かすかな波風は立つものの、結局、映画の冒頭と終わりで1ミリの変化もないまま、エンドロールが流れていきました。

不思議なことに、後味は悪くありません。

諦めとか、哀しみという陳腐なことばでは片付けられないものが残りました。

 

輪廻転生があるかどうかは別として、です。

意識する範囲では、誰もが生きること自体が始めてという舞台設定で、人生は進んでいきます。

生まれて初めての子供時代、成人時代、そして老年時代。

リハーサルのない ぶっつけ本番のなかで

ソツなく生きる術を身につけ、世の中をうまく渡りきれる人ばかりでしょうか。

何をやっても 今ひとつ浮かび上がらない人を

「自己責任」という切れ味は、容赦なく切り捨てていきますが

そう、誰もが命を与えられただけでは、生き方上手になれると限りません。

今日を生きるのに精一杯で、明日を変える余力もない良多にとって

「かつて賞を獲った小説家」

それは切ないほど、有効期限切れの栄光だとしても・・・

その杖があって、歩いていけるのではないでしょうか。

マニュアルなどない人生のなかで、誰もが自己流で生き抜くしかないのです。

 

どこにでもいそうな 市井の人々

1枚の絵巻に 昨日の 今日の 明日の営みを 同じ筆で描きゆく

生ぬるい温かさや 突き放した冷たさもなく

ありのままをただみつめる 是枝監督のまなざしは 海よりもまだ深く

そして 菩薩のようなのを感じました。

 

 

悪口とウワサ話のあいだ

「人を悪くは言わない方がいい。」

自己啓発書などでは、頻繁に出てくるフレーズです。

ごもっともで、同意する人も多いでしょう。

「悪口は言わないように」と心がけている人も少なくありません。

ところで、人のウワサはどうでしょうか。

 

一口にウワサ話といえども、です。

さまざまなバリエーションがあります。

当たり障りのないものの代表は、単なる事実を語るモノでしょう。

「あの人、どこそこに旅行に行ったんだって。」
「最近、体調がいいって言ってたよ。」など。

これのみをウワサ話というならば、ほとんど害はないでしょうが。

ウワサ話の範囲のなかに、悪口とのグレーゾーンがあるから厄介です。

グレーゾーン、そこには。

価値判断や批判が入るもの、本人の前では言いにくいものなどが含まれます。

「○○さん、あぁ言ってたけど、自信のなさが見え隠れしてるよね。」
「△△さんの言うこと、ごもっともだけどなぁ、でもココは分かってない気がする。」

この手のものは、露骨な悪口とは言いがたいですが

とはいえ、当たり障りのないと言えるでしょうか。

何より、本人には直接言いにくいものであったり、言ったあとにかすかな気まずさが残るでしょうから。

ひとしきり語ったあと、お口直しが出てきます。

「あの人、すっごくイイ人なんだけどなぁ~。」

悪く言ってるワケではないよ~~のエクスキューズでしょうか。

おおやけに言うのは憚れるが、心のなかに拭いきれないものがある。

だからこそ、ウワサ話という体で分かってくれそうな人に言いたくなる。

そこで共感してもらえたら、気が軽くなるでしょうし。

さらに同意までもらえたら、正当性のお墨付きまでついてくるのです。

 

それでも、言えることがあります。

「人のウワサ話は、やはり減らした方がいい」

道徳的に考えるだけでなく、合理的に考えても同じ結論でしょう。

ウワサ話のあと、お茶を濁すように褒め言葉を加えても

できるだけ客観的に話そうとしても、です。

聞いている相手は、心の片隅にこう受け止めます。

「あぁ何かあったら、自分もこんな風に言われるんだろうなぁ」

特定の誰かへのジャッジが、自分へと矢印が跳ね返ってきます。

そのデメリットは意外に大きく、看過できないのではないでしょうか。

 

心のモヤモヤを吹き飛ばす、もっとも気軽な手段として用いられる 誰かのウワサ。

即効性がある代わりに、副作用も多大です。

思いをぶつけて 今すぐスッキリした方がいいのか

自分の評判をすり減らしてまで 口にするほどのことかを

再考してみてもいいかもしれません。

 

 

人を愛する対象に性別は関係ない

経済評論家・勝間和代さんのカミングアウトが、密かに反響を呼んでいるそうです。

私もその一人で、個人的にはマグナム級の衝撃だったでしょうか。

以前から私は彼女の著書や文章が好きで、無料メールマガジンも購読しています。

前のご主人との間に3人もお子さんがおられるし、思いもよらなかったといいましょうか・・・。

「新しいパートナーです」
男性とのツーショット写真がアップされてるなら、「あぁ良かったねぇ」とジンワリ温かく終わった余韻。

今の時代、不思議ではないと頭ではわかりつつも、気持ちは納豆のようにねばっこく糸を引くのです。

性別を超えて、人を愛するということ

映画「リリーについて」や「ムーンライト」を観たときに、あとでLGBTなどを調べたことがあります。

人を愛するスタイルというのは、その対象が同性か異性か・・だけではありません。本当に多種多様なのです。

同性を愛するだけでなく、愛する対象に性別は関係ない人もいます。(勝間さんはそうでしょう)
また同時に複数の人を愛するほうが、一人ひとりに対する愛が増すという方もおられるそうです。
それとは逆に、性別関係なく、ある特定の人間に一途な愛をささげ続ける人もいます。

人の趣味や嗜好も、どんどん個別化・細分化していくように。
人の愛し方も「一般的」が薄れ、個別化するかもしれません。

 

「人間として、どうしようもなく惹かれる」「いつも一緒にいたいと思う」
これが恋だと定義したら、です。

本来、それは性別は関係ないのかもしれません。

私自身を振り返ってみると、恋愛感情を抱いたのは確かに「異性」だけでしたが。

もしそれが、たまたまにすぎなかったとしたら・・・。
文化的に「恋愛対象は異性であるのが普通」という刷り込みが奥深く染み込んでいる結果だとしたら・・・

 

「人を愛する対象に、同性・異性の区別はない」

歴史のなかで人間は、天と地がひっくり返るようなパラダイムシフトを繰り返してきました。

この先、愛に対する地殻変動が起こっても、不思議ではないかもしれませんね。

それは、人間を解放する動きになっていくのでしょうか。