人を愛する対象に性別は関係ない

経済評論家・勝間和代さんのカミングアウトが、密かに反響を呼んでいるそうです。

私もその一人で、個人的にはマグナム級の衝撃だったでしょうか。

以前から私は彼女の著書や文章が好きで、無料メールマガジンも購読しています。

前のご主人との間に3人もお子さんがおられるし、思いもよらなかったといいましょうか・・・。

「新しいパートナーです」
男性とのツーショット写真がアップされてるなら、「あぁ良かったねぇ」とジンワリ温かく終わった余韻。

今の時代、不思議ではないと頭ではわかりつつも、気持ちは納豆のようにねばっこく糸を引くのです。

性別を超えて、人を愛するということ

映画「リリーについて」や「ムーンライト」を観たときに、あとでLGBTなどを調べたことがあります。

人を愛するスタイルというのは、その対象が同性か異性か・・だけではありません。本当に多種多様なのです。

同性を愛するだけでなく、愛する対象に性別は関係ない人もいます。(勝間さんはそうでしょう)
また同時に複数の人を愛するほうが、一人ひとりに対する愛が増すという方もおられるそうです。
それとは逆に、性別関係なく、ある特定の人間に一途な愛をささげ続ける人もいます。

人の趣味や嗜好も、どんどん個別化・細分化していくように。
人の愛し方も「一般的」が薄れ、個別化するかもしれません。

 

「人間として、どうしようもなく惹かれる」「いつも一緒にいたいと思う」
これが恋だと定義したら、です。

本来、それは性別は関係ないのかもしれません。

私自身を振り返ってみると、恋愛感情を抱いたのは確かに「異性」だけでしたが。

もしそれが、たまたまにすぎなかったとしたら・・・。
文化的に「恋愛対象は異性であるのが普通」という刷り込みが奥深く染み込んでいる結果だとしたら・・・

 

「人を愛する対象に、同性・異性の区別はない」

歴史のなかで人間は、天と地がひっくり返るようなパラダイムシフトを繰り返してきました。

この先、愛に対する地殻変動が起こっても、不思議ではないかもしれませんね。

それは、人間を解放する動きになっていくのでしょうか。

 

 

称賛という名の重荷

「この事故に関わった人間は人生が変わる」

2009年1月アメリカにて、155名を乗せた飛行機が離陸直後、全エンジン停止のトラブルに見舞われた事件がありました。

サレンバーガー機長の冷静な判断により、マンハッタン付近のハドソン川に不時着水したのです。乗客・乗組員全員、犠牲者ゼロを成し遂げた快挙に、アメリカはもとより、全世界が絶賛したのでした。

その事件を、トム・ハンクス主演で映画化したのが「ハドソン川の奇跡」です。

ハドソン川の奇跡

映画本編のあとのボーナストラックとして、サレンバーガー機長ご本人や家族のインタビューが収録されていました。

「ともに危機を乗り越えた乗員乗客、救助隊たち、すべての力が成したこと」

「英雄」と呼ばれるたびに、こう繰り返していたサレンバーガー機長。

機長として当たり前のことをしたにも関わらず、英雄視扱いされ、自宅前にはマスコミが張り付いてます。

「普通の生活に戻りたい」

サレンバーガー機長にとって、称賛は代償を伴うものでした。彼の家族だけでなく、1549便のクルーたちも突然世界中から注目され、困惑していたのです。

サレンバーガー機長は、当時を振り返ります。

「急にそれまでとは違う、新しい生き方を迫られた。世界的に有名になることに慣れる必要があったんだ。」

こんなすごい奇跡を成し遂げたんだ!
万能感にひたれる人であったならば、英雄視されることをむしろ快感に覚えるでしょう。

運命は時として、ソレを望まない人間に、称賛を背負わせるのでしょうか。

彼は追い詰められ、ささいなことで妻と言い争いするようになっていきます。

もがく日々のなか、一筋の光が指したのは

与えられてしまった役割の意味を、彼は見出したからでした。

 

当時はリーマンショック後の金融危機の真っ只中。

暗いニュースに怯えながら、人々は希望となるものを求めていました。

ハドソン川の奇跡が起こったのは、そんなさなかの事です。

事故のあと、世界中から届いた5万通ものメッセージ。その中に、ハドソン川の奇跡に励まされた人たちもたくさんいたのでした。

1個人の彼は、決して英雄ではない
しかし、その事件が生み出した”英雄”は、人々の希望の光であった

その象徴としての役割を、引き受ける覚悟ができたのでしょう。

 

個人では手におえないほどの称賛を、突然押し寄せられたとき

めっそうもない・・・

謙虚さを隠れ蓑にして、その役割から逃れたくなるのも当然です。

しかし役割は、私たちの預かりしれぬところで決められます。

この世界のなかで 誰かに委ねられるべき 象徴を

気恥ずかしさ、生身のいたたまれなさを超え、受け入れたときに

役割という名のバネが 人間的成長へと脱皮させてくれるのではないでしょうか。

 

 

思い通りに描けない人生に

少し前ですが、長友心平さんの絵画教室に参加しました。

その頃、RADWIMPSの「スパークル」を繰り返し聴いていたせいもあり、心の中でずっと星空が輝いていました。

夜空が音もなく広がるなか ちいさな輝きを放つ星たち

それを描き出してみたい・・・

十数年ぶりに手にとった絵の具をギュッと絞り出しました。

絵筆にしたたる紺色を広げ、キャンバスを染めあげていきます。

・・・けれども、塗れども塗れども、遠ざかっていくばかり

私のイメージにある夜空と キャンバスに描き出したもの

違う青を足してみる 濃紺を少し混ぜてみる

心に浮かぶ 夜空はこれほど完璧なのに

手が全く再現できないのです。

 

人生においてもそうではないでしょうか。

「こうすれば、きっとこうなる」

「こういう風に話せば、こんな反応が返ってくるはず。」

うまくいく!イメージで臨んでも、現実では見事に砕け散ることがあります。

数式のように美しい成功法則

頭の中だけで留めておけば、いつまでも完璧なのに

淡い期待をのせて、現実へと筆をおろしてみるのです。

その通りになぞるつもりが、なめらかに筆を動かせず、思い通りの未来は描けません。

 

こうなるはずの未来は 何万光年先に遠ざかる

間違いや見当違いばかりが目に付き

自分の不甲斐なさに ため息は深まるばかりです。

それでも 夜があけて 朝がくる

今日も、筆をおろし続けるしかないのです。

 

いくら完璧なイメージを描いたとしても 

実行するのは 全く完全ではないワタシ。

こんなはずではなかった・・・

そうは問屋がおろさなくても

何度でも 描きなおすのです。

生まれてもってきたときの青写真

少しでも ソレに近づくよう

今日も 明日も筆をおろします。

 

 

失うものをもつ強さ

「勝ったーーー。」

日本中が見守った氷上の上で、身体の底から叫ぶ勇者のすがたに

私もふるえて、涙が止まりませんでした。

 

ユルユルではありますが、私は羽生選手のファンです。

きっかけは、ソチ五輪のショートプログラム。彼の演技は、何とも言葉にしがたい何かに触れました。

 

彼が醸し出す そこはかとない透明感

存在が発する音、その響き。

しかも、けっして無垢ではないのです。

何かを濾過したあとの透明感といいましょうか。

 

日本中、いや世界中からのオリンピック二連覇への熱い期待

そして出身地の仙台をはじめとした、被災地の復興への願い

19歳にして世界のTOPに立ってから、様々な思いを背負うことになりました。

それは私では想像もできないほどの重みでしょう

その上、右足に致命的なケガを負ったのです。

平昌オリンピックを欠場しても、誰からも責められる言われはありません。

しかも、金メダルは既に獲得したのですから・・・。

しかし彼は何も言わず、全てを背負ったまま、リンクに戻ってきました。

 

「もう自分にはメダルは無い。失うものは何もない。」

メダルの重圧から解放され、いい意味で開き直った米国のネイサン・チェン選手。

SPの不振が心から惜しまれるほど、フリーでは会心の演技を披露し、多くの賞賛を浴びました。

もちろん、私もそのうちの一人です。

失うもののない強さを体現したのが、ネイサン選手なら

羽生選手は逆でしょうか。

日本中、いや世界中から注がれる期待、憧れ、そして・・・時にはやっかみ

さらには 被災地の人々の願いや祈り など

さまざまなエネルギーが入り混じる 玉石混交なもの それが

彼の双肩にかかっていたのです。

しかし人々が織りなす複雑な期待を、重圧ではなく、糧へと変えました。

「右足が頑張ってくれた。感謝しかない」

糧となったエネルギーは、右足の負傷を超え、金メダルへのジャンプへと羽ばたいたのです。

 

失うものを持つ そのことを強さに変え

全てに感謝へと変える存在へと進化した姿に

私も そして日本中の方々も 心の底から敬意を評したのではないでしょうか。

 

 

当たり前をスカッと壊すもの

人々そして社会の価値観は、足音を立てずに変化をきざむのでしょうか。

「あぁ結婚当初から、夫と二人で家事を分担してるので、それは別に・・・。」

育児と仕事の両立が大変・・・古くて新しい話題になったときのことです。

「旦那さんは、家事は手伝ってくれるの?」

さりげなく尋ねた私の質問に対して、私よりもかなり若い彼女の答えが、ソレでした。。

私と同じ世代からも、同じ答えが返ってくることもあります。

しかし伝わる音色が違うのです。

「うちは、家事も手伝ってくれる人なのよ、助かるわ~。」

助かるわ~の響きが大きめなのは、家事は主に女性が担当するもの - その前提が大きく乗っかるせいでしょうか。

冒頭の彼女から伝わったのは、シンプルな音色です。

「えっ、旦那も(家事)やりますけど、何か?」

私の質問を、即座に旧世代ならではに変えました。

 

うーん、なんだろう・・・この既視感に満ちた風景は。

私の子育てが始まったのは、10年前。

特に話し合うこともなく、おむつ替えや風呂に入れたり、保育園の送り迎えなど、子育ては全て夫婦二人でやってました。

「あぁ、旦那も色々と(子育て)してくれるよ~。」

特に声高に言うこともなく、ごく普通のこととして捉えてましたし、同世代の反応もあっさりしてました。

ただ、少し前の世代からの反応はやや違いがあります。

「今どきの旦那さんは、そこまでやるのか・・・。」

ほぼ子育ては妻が担当していた人たち。理解は示すものの、モヤモヤが拭いきれないようです。

そんな私も「家事」となると、勝手が違います。

結婚当初から家事分担を話し合うこともなく、むしろ、そんな発想が無かったという方がより正解でしょうか。

家事も夫婦が分担するのは当然な人たちからすると、古めかしさが漂うかもしれませんが

当事者の私には、別にやらされ感や不公平感もありません。

家事は主に妻が担当するもの - この価値観に異議を感じたことがないからです。

 

さらに未来、娘が結婚する頃は、より男女間の役割があいまいかもしれません。

いや結婚制度自体が、今とは違うものに変わっているでしょう。

今からでは予想もつかないほど新しい価値観に触れたとき、私はどう思うのでしょうか。

「今どきの若いものは・・・」
「私の若い頃は、◯◯だったのにぃ~。」

いつの時代も聞くボヤキを口にするのでしょうか。

「へぇぇぇ~。こんな考え方や価値観も出てきたのかぁ~。」

同意や共感はともかく、柔軟に面白がることが出来るのでしょうか。

何十年も石化した価値観、スカッと壊してくれるのが・・・怖いような、楽しみのような気持ちです。