朝比奈映未 オフィシャルサイト

日々のひとりごと

つかの間しか遺らない芸術

長い年月の風雪に耐え、今も多くの人を驚嘆させるもの

そんな芸術の多くは資産として認識され、天井知らずの値がつくものもあります。

世界中のどこにいても、同じ月を眺めるように

どの時代に佇んでいても 同じ絵画を愛でることができます。

資産価値はともかく、後世まで遺る作品を一つでも生み出したい・・・それは芸術家たちの切ない願いでしょうか。

しかし永遠にどころか、つかの間しか遺らないものをあえて素材に選び、心血注いで創り上げる芸術があります。

 

鳥取砂丘にある、砂の美術館。

ここに展示されているのは、砂像と呼ばれる、砂と水だけで作られた彫刻です。

毎年テーマが変わるのですが、今年のメインは北欧神話でした。

マッチ売りの少女、サンタクロース・・・

触れるとすぐに崩れそうなほど繊細な、砂という素材で、一つ一つの作品がどれも精緻に創られています。

肌さわりまで伝わる布の質感や、今にも喋りだしそうな生き生きとした表情など・・・砂と水だけで、ここまでリアルさを体現できるものか・・・圧倒としかいいようがありません。

どれだけ時間をかけて、丁寧に創り込んだとしても、です。

性質上、資産としてカタチでは残る芸術ではなく、展示期間をすぎるとあっけなく解体されます。

セミのよう 刹那に羽ばたいて すぐ土に戻っていく・・・

その砂像を目にするのは、たまたまその期間に出向いた人たちだけ

二度と再現できない、一期一会に永遠の美しさを刻み込む・・・その潔さは私の心を震わせました。

 

砂像というものは 名もなき人たちの生をそのまま表すかのようです。

自分が生きた証は 後世まで遺らなくても

それでも生涯かけて、砂像を彫り続けます。

砂が崩れそうになっても 思い通りにならなくても

触れ合ったひとたちだけが 世界でたった一つの有り様を目にするのです。

サンタクロースは 柔らかい眼差しを降り注いでくれました。

生きること それこそが 芸術そのものであるのだと、と。

 

 

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投稿日: 2018-08-03

人を愛する対象に性別は関係ない

経済評論家・勝間和代さんのカミングアウトが、密かに反響を呼んでいるそうです。

私もその一人で、個人的にはマグナム級の衝撃だったでしょうか。

以前から私は彼女の著書や文章が好きで、無料メールマガジンも購読しています。

前のご主人との間に3人もお子さんがおられるし、思いもよらなかったといいましょうか・・・。

「新しいパートナーです」
男性とのツーショット写真がアップされてるなら、「あぁ良かったねぇ」とジンワリ温かく終わった余韻。

今の時代、不思議ではないと頭ではわかりつつも、気持ちは納豆のようにねばっこく糸を引くのです。

性別を超えて、人を愛するということ

映画「リリーについて」や「ムーンライト」を観たときに、あとでLGBTなどを調べたことがあります。

人を愛するスタイルというのは、その対象が同性か異性か・・だけではありません。本当に多種多様なのです。

同性を愛するだけでなく、愛する対象に性別は関係ない人もいます。(勝間さんはそうでしょう)
また同時に複数の人を愛するほうが、一人ひとりに対する愛が増すという方もおられるそうです。
それとは逆に、性別関係なく、ある特定の人間に一途な愛をささげ続ける人もいます。

人の趣味や嗜好も、どんどん個別化・細分化していくように。
人の愛し方も「一般的」が薄れ、個別化するかもしれません。

 

「人間として、どうしようもなく惹かれる」「いつも一緒にいたいと思う」
これが恋だと定義したら、です。

本来、それは性別は関係ないのかもしれません。

私自身を振り返ってみると、恋愛感情を抱いたのは確かに「異性」だけでしたが。

もしそれが、たまたまにすぎなかったとしたら・・・。
文化的に「恋愛対象は異性であるのが普通」という刷り込みが奥深く染み込んでいる結果だとしたら・・・

 

「人を愛する対象に、同性・異性の区別はない」

歴史のなかで人間は、天と地がひっくり返るようなパラダイムシフトを繰り返してきました。

この先、愛に対する地殻変動が起こっても、不思議ではないかもしれませんね。

それは、人間を解放する動きになっていくのでしょうか。

 

 

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投稿日: 2018-06-04

思い通りに描けない人生に

少し前ですが、長友心平さんの絵画教室に参加しました。

その頃、RADWIMPSの「スパークル」を繰り返し聴いていたせいもあり、心の中でずっと星空が輝いていました。

夜空が音もなく広がるなか ちいさな輝きを放つ星たち

それを描き出してみたい・・・

十数年ぶりに手にとった絵の具をギュッと絞り出しました。

絵筆にしたたる紺色を広げ、キャンバスを染めあげていきます。

・・・けれども、塗れども塗れども、遠ざかっていくばかり

私のイメージにある夜空と キャンバスに描き出したもの

違う青を足してみる 濃紺を少し混ぜてみる

心に浮かぶ 夜空はこれほど完璧なのに

手が全く再現できないのです。

 

人生においてもそうではないでしょうか。

「こうすれば、きっとこうなる」

「こういう風に話せば、こんな反応が返ってくるはず。」

うまくいく!イメージで臨んでも、現実では見事に砕け散ることがあります。

数式のように美しい成功法則

頭の中だけで留めておけば、いつまでも完璧なのに

淡い期待をのせて、現実へと筆をおろしてみるのです。

その通りになぞるつもりが、なめらかに筆を動かせず、思い通りの未来は描けません。

 

こうなるはずの未来は 何万光年先に遠ざかる

間違いや見当違いばかりが目に付き

自分の不甲斐なさに ため息は深まるばかりです。

それでも 夜があけて 朝がくる

今日も、筆をおろし続けるしかないのです。

 

いくら完璧なイメージを描いたとしても 

実行するのは 全く完全ではないワタシ。

こんなはずではなかった・・・

そうは問屋がおろさなくても

何度でも 描きなおすのです。

生まれてもってきたときの青写真

少しでも ソレに近づくよう

今日も 明日も筆をおろします。

 

 

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投稿日: 2018-04-20

失うものをもつ強さ

「勝ったーーー。」

日本中が見守った氷上の上で、身体の底から叫ぶ勇者のすがたに

私もふるえて、涙が止まりませんでした。

 

ユルユルではありますが、私は羽生選手のファンです。

きっかけは、ソチ五輪のショートプログラム。彼の演技は、何とも言葉にしがたい何かに触れました。

 

彼が醸し出す そこはかとない透明感

存在が発する音、その響き。

しかも、けっして無垢ではないのです。

何かを濾過したあとの透明感といいましょうか。

 

日本中、いや世界中からのオリンピック二連覇への熱い期待

そして出身地の仙台をはじめとした、被災地の復興への願い

19歳にして世界のTOPに立ってから、様々な思いを背負うことになりました。

それは私では想像もできないほどの重みでしょう

その上、右足に致命的なケガを負ったのです。

平昌オリンピックを欠場しても、誰からも責められる言われはありません。

しかも、金メダルは既に獲得したのですから・・・。

しかし彼は何も言わず、全てを背負ったまま、リンクに戻ってきました。

 

「もう自分にはメダルは無い。失うものは何もない。」

メダルの重圧から解放され、いい意味で開き直った米国のネイサン・チェン選手。

SPの不振が心から惜しまれるほど、フリーでは会心の演技を披露し、多くの賞賛を浴びました。

もちろん、私もそのうちの一人です。

失うもののない強さを体現したのが、ネイサン選手なら

羽生選手は逆でしょうか。

日本中、いや世界中から注がれる期待、憧れ、そして・・・時にはやっかみ

さらには 被災地の人々の願いや祈り など

さまざまなエネルギーが入り混じる 玉石混交なもの それが

彼の双肩にかかっていたのです。

しかし人々が織りなす複雑な期待を、重圧ではなく、糧へと変えました。

「右足が頑張ってくれた。感謝しかない」

糧となったエネルギーは、右足の負傷を超え、金メダルへのジャンプへと羽ばたいたのです。

 

失うものを持つ そのことを強さに変え

全てに感謝へと変える存在へと進化した姿に

私も そして日本中の方々も 心の底から敬意を評したのではないでしょうか。

 

 

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投稿日: 2018-02-23

当たり前をスカッと壊すもの

人々そして社会の価値観は、足音を立てずに変化をきざむのでしょうか。

「あぁ結婚当初から、夫と二人で家事を分担してるので、それは別に・・・。」

育児と仕事の両立が大変・・・古くて新しい話題になったときのことです。

「旦那さんは、家事は手伝ってくれるの?」

さりげなく尋ねた私の質問に対して、私よりもかなり若い彼女の答えが、ソレでした。。

私と同じ世代からも、同じ答えが返ってくることもあります。

しかし伝わる音色が違うのです。

「うちは、家事も手伝ってくれる人なのよ、助かるわ~。」

助かるわ~の響きが大きめなのは、家事は主に女性が担当するもの - その前提が大きく乗っかるせいでしょうか。

冒頭の彼女から伝わったのは、シンプルな音色です。

「えっ、旦那も(家事)やりますけど、何か?」

私の質問を、即座に旧世代ならではに変えました。

 

うーん、なんだろう・・・この既視感に満ちた風景は。

私の子育てが始まったのは、10年前。

特に話し合うこともなく、おむつ替えや風呂に入れたり、保育園の送り迎えなど、子育ては全て夫婦二人でやってました。

「あぁ、旦那も色々と(子育て)してくれるよ~。」

特に声高に言うこともなく、ごく普通のこととして捉えてましたし、同世代の反応もあっさりしてました。

ただ、少し前の世代からの反応はやや違いがあります。

「今どきの旦那さんは、そこまでやるのか・・・。」

ほぼ子育ては妻が担当していた人たち。理解は示すものの、モヤモヤが拭いきれないようです。

そんな私も「家事」となると、勝手が違います。

結婚当初から家事分担を話し合うこともなく、むしろ、そんな発想が無かったという方がより正解でしょうか。

家事も夫婦が分担するのは当然な人たちからすると、古めかしさが漂うかもしれませんが

当事者の私には、別にやらされ感や不公平感もありません。

家事は主に妻が担当するもの - この価値観に異議を感じたことがないからです。

 

さらに未来、娘が結婚する頃は、より男女間の役割があいまいかもしれません。

いや結婚制度自体が、今とは違うものに変わっているでしょう。

今からでは予想もつかないほど新しい価値観に触れたとき、私はどう思うのでしょうか。

「今どきの若いものは・・・」
「私の若い頃は、◯◯だったのにぃ~。」

いつの時代も聞くボヤキを口にするのでしょうか。

「へぇぇぇ~。こんな考え方や価値観も出てきたのかぁ~。」

同意や共感はともかく、柔軟に面白がることが出来るのでしょうか。

何十年も石化した価値観、スカッと壊してくれるのが・・・怖いような、楽しみのような気持ちです。

 

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投稿日: 2018-01-29