ハッピーエンドの選び方

2009年の米国アカデミー賞外国語映画部門では、日本の「おくりびと」とイスラエルの「戦場でワルツを」とが激しく争っていましたが。
イスラエルで生まれた本作品は「おくりびと」に触発されたそうです。因縁を感じますね。

「安楽死」を題材にといえば、どうしても重くなりがちですが。
適度なユーモアと登場人物たちのハートフルな姿が、重みを緩和していました。

安楽死の装置を発明した主人公ヨヘスケルの前に、評判を聞きつけた人たちが続々と訪れます。
余命わずかの配偶者から安楽死を懇願され、「とにかく一度、話を聞いてやってほしい」と。

生きる望みがわずかでもあるならば、激痛に耐える甲斐もあるでしょうが。
その望みを絶たれた上で、なおも苦しみを強いるのは、拷問のように思えてしまいます。

もう充分がんばった - ラクになることを望むのも無理はありません。

とはいえ、ヨヘスケルでさえ、出来れば依頼を受けたくはありませんでした。いくら本人が強く望むといえども、人の命を奪うことには変わりありませんから。

安楽死を受け入れるかどうか-
本作品でも結論を指し示したわけではなく、私も結論が出ないままです。

ただ、安楽死を考えるならば、その前の段階で、一人ひとりが問い直さなければいけません。

「どう生きていくのか」
この問いなら、人生のなかで幾度となく問うことはあるでしょう。

ただし「肉体的にも心身的にも健康である」ことが土台にあり、その上で「どう」を問いかけるのです。

自分にとっての「生きているとは?」を問うことは、土台から見直すことになります。

時代や地域にによって違うのかもしれませんが。
現在の日本での「死」は、心停止、呼吸停止、瞳孔拡散で判断されるといいます。

ただ、こういった「死」と「生」の境目は、人間が定めたものです。
もっといえば、「死」というものを発見し、定義したのも人間なのでしょう。

もし、あるがままを観る存在がいるとしたら、
人間の動きが止まり、肉体が崩れ始め、土に還っていくプロセスは、途切れない一連の流れにしか見えないでしょう。

映画のなかでは、肉体の限界だけでなく、自我の喪失(認知症)についても触れています。
自分の命は自分だけのものではない以上、事前に意思を表明しても、その通りになるかどうかは分かりませんが。

自分にとっての「生きているとは?」
人生の集大成となる「最期のとき」はどうありたいのか

これらの問い、死生観は「どう生きたいのか」につながっていきます。

正解も正論もありません。
一生、結論はゆれ動くかもしれません。

それでも、考えることを諦めないこと、それが大事だと思います。

映画の邦題は「ハッピーエンドの選び方」
自分の意思で死を決めることは、必ずしも100%ハッピーエンドとは保証できませんが。

主人公が安楽死の現場に立ち会う場面は、心温まるものでした。
家族への感謝を最大限にビデオレターにおさめ、愛するパートナーにキスをし、友人たちに温かく見守られながら、穏やかな表情で旅立っていったのです。

感謝のきもちで人生を終えたこと、その人にとっては最良の選択だったと思います。
そして、自分ならどうありたいか・・・そのことを考えさせてくれた映画でした。