自分とは真逆に生きる大切さ

「今、何を感じてるの?」

かなり前のこと。ある人への不満を滔々と語る私への不意打ちでした。

何を問われているのか、鳩が豆鉄砲を食らったのです。

「だから、あの言い方って理不尽で、ああたらこうたら・・・」

「いや、そうじゃない。考えるのではなく、感じてみて。」

 

夕陽を見ただけであふれることも・・・今の私はどうも涙腺の蛇口がユルユルですが。

かつては違います。

「感じるって何よ?」

逆に問いかけるほど、かつては感覚を固く閉じていたのですから。

 

生まれ持っての私は、多感な気質でした。

ただしこの事が分かったのは、かなり後のことです。

ごく幼い時期に感覚を閉じ、その期間はかなり長きにわたりました。

怒り、悲しみ、憎しみ、恐れ・・・

これらを「思考」で捉えることはあっても、「感覚」で受け止めることはなかったのです。

身体でモロに受けるのはあまりに苦しかったのでしょうか。

自分の身を守るための、幼いなりの生存戦略でした。

生まれ持って鋭敏な感覚を持つ人は、同じように閉じる傾向があると聞きます。

そして感覚を閉じることで、失われたことも多々ありました。

確かに生々しい「悲しみ」や「辛さ」は緩和されますが、同じく「喜び」「楽しみ」も希薄です。

映画を観て、登場人物に感情移入することは皆無でしたし。

人の気持ちが分からないと、悩んだりもしました。

 

ただし、です。

もし幼い頃に戻るなら、鋭敏なままで生きるかどうかと問われたら・・・ですが。

恐らく、No。選択に変わりはないでしょう。

弱い自分のまま鋭敏さだけがあっても、おそらく手に負えません。

何よりも、です。

捨てる神あれば拾う神ありで。

鋭敏さを閉じることで、真逆の気質が引き出されたのです。

あえて鈍感になることで、カタツムリのよう身を守ることを覚え

思考や理屈・・・言葉でモノゴトを捉えるチカラもつきました。

手持ちの気質だけでは手薄な部分を、これらが補ってくれたのです。

生まれてこの方、気質だけで歩んでいたら、身につくことは無かったでしょう。

 

生まれ持った気質を活かすことは、才能を伸ばすことでもありますが。

それ一辺倒では、人生の幅は広がらないと思います。

きたるべき時に、気質を活かすために

苦労しながらも、気質とは逆のチカラを伸ばした体験が

可能性や能力に、奥行きを持たせてくれるはずですから。