ことばが世界をより豊かに変える

ピアノがどこかに溶けている美しいものを取り出して耳に届く形にできる奇跡だとしたら、僕はよろこんでそのしもべになろう

ことばって、こんなにも世界を豊潤にしてくれる・・・

忘れかけていた喜びを、この小説は思い出させてくれました。

小説 羊と鋼の森

本屋大賞を受賞し、映画化もされた作品なので、ご存知の方も多いでしょう。

熟練のピアノ調律師が醸し出す”音”に導かれて、自らも調律師の道を選んだ青年の物語です。

ストーリー自体に起伏は少なく、終始、穏やかな曲調が行間を流れます。

アマゾンレビューにもありますが、人によっては単調に思えるのも仕方がないでしょう。

しかし、私はページをめくる時間すら、豊かさで溢れてました。

本作の著者・宮下奈都さんが織りなすことば、その鮮やかさが胸を打ちます。

例えば、森の描写。

森の匂いがした。秋の、夜に近い時間の森。風が木々を揺らし、ざわざわと葉のなる音がする。夜になりかける時間の、森の匂い。

私の心の中にある、日が沈む前の森が浮かび上がります。

すこし足を踏み入れたときの心のざわめき。

しかし、そのざわめきは通常、心をかすったまま沈んでいきます。

作家の宮下さんの描写で、声にならなかった情景が立ち昇ってくるのです。

森 山 川 木 空・・・あらゆる風景が日々 視界にあらわれるのに

観えていないものがたくさんあります。

山だと思っていたものに、いろいろなものが含まれているのだと突然知らされた。土があり、木があり、水が流れ、草が生え、動物がいて、風が吹いて。
ぼやけていた眺めの一点に、ぴっと焦点が合う。山に生えている一本の木。その木を覆う緑の葉。それがさわさわと揺れるようすまで見えた気がした。

まるで塗り絵の一コマ一コマを、多彩な色で使い分けていくように

ことばという色鉛筆は、のっぺりとした山を表情豊かに変えてくれます。

はじめに言葉ありき

『新約聖書』の中の「ヨハネの福音書」のことばですが。

モノがあって言葉があるのではなく、言葉があって初めて、その「モノ」は「存在」として顕現されます。

日常生活で、喜怒哀楽がないまぜに立ち現れては、過ぎ去っていきますが

微細な喜びや美しさに惜しみなくことばを与えていくことで、人生の景色はかなり変わるのではないでしょうか。