幸せのハードルを下げるとき

どんな状況に置かれても、その中から喜びや幸せを見出だせるチカラが、人間には備わっているのかもしれません。

コーチの中西紗耶香さんの読書会に参加したのをきっかけに、久々に読み返しました。

夜と霧

言わずとしれた、ヴィクトール・E・フランクル著書の世界的ベストセラーですね。

第二次世界大戦中、ナチスドイツに捕らえられた強制収容所での人々の様子を、心理学者らしい客観的な視点で淡々と描かれています。

悲惨や絶望で覆い尽くされた生活のなかでは到底、喜びなんて見出だせないと思うでしょうが。

そうではありません。

寝る前にシラミ退治を終えたこと、もうそれだけで喜んだと書いてありました。

 

フランクルが体験した過酷な状況のあとで述べるのは、非常におこがましい限りですが。

私も、自由を拘束された時期がありました。

妊娠後期の検診で早産の恐れを指摘され、胎児を子宮に留めるため、2ヶ月間入院することになったのです。

痛くも何ともないのに、ほぼ一日ベットで過ごす毎日。

立って歩けるのは、原則としてトイレと3日に一度の風呂のみでした

入院していた3階のフロア以外に行きたいときは、看護師の許可がいります。

たとえ許可がおりても、看護師さんとともに車椅子で移動しなくてはいけませんでした。

テレビや読書の制限が無かったのが、せめてもの救いでしたが。

今日はどう過ごそう -ため息とともに目が覚める毎朝。

忙しい人からみると羨ましいかもしれませんが、ベットの天井を見上げ続ける日々は、苦痛という文字しかありません。

時間だけは吐いて捨てるほどあるなかで、少しでも彩りを求めたのでしょうか・・・

幸せの閾値をググッと下げることで、自分なりに喜びを作り出していったのです。

たまたまチャンネルを合わせたTVで面白い番組に当たったとき

質素な病院食のなかで、少しですが肉が入ってたとき、喜びに湧きました!

週に一度の医師による診察は、退屈をもてあます身には待ち遠しいイベントです。

健康な人からみると取るに足らないこと、記憶にものぼらないことでしょう。

それを喜びに変換していったのです。

 

その後無事に出産したあとは、慌ただしい日々を送っています。

取り戻した自由とともに、幸せの閾値も元に戻ってしまいました。

その気さえあれば、毎日でも肉を食べられる日常では、あの喜びは得られません。

以前、幸せとは落差である でも似たようなことを書きましたが。

人間その気になれば、どんな状況からでも「小さな光」を拾い上げて、幸せや喜びに変えていけます。

恐るべき人間の能力であり、生存戦略かもしれません。