
価値観には聖域がない
「本来は、良いも悪いもない」
ここ数年来、私が少しずつ深めている価値観であり、モットーでもあります。
本ブログでも、この表現をたびたび用いてますが。
物事はつねに中立で、相対的だとしたら。
起きる出来事や人物は、ある側面で「善」であっても、別の側面では「悪」でしかありません。
善悪や良し悪しは、風見鶏のようにコロコロ変わる相対的なものでしょう。
しかしネットの発達で、ある側面だけで断罪する風潮が高まっています。
一面だけを観て断罪するのは、愚の骨頂としか思えません。
その行為が、めぐりめぐって、自分の首を締めるのではないでしょうか。
とまぁ、強めに語りましたが(笑)
同じような価値観は、巷でもよくみかけますね。
「ありのままを観る」
「物事にとらわれない」
良い悪い、善と悪ー 二項対立からの解放を目指すところでしょうが。
価値観のひとつである限り、価値判断をつくり出す構造から免れません。
先ほど、私は「一方だけを観て断罪するのは、愚の骨頂だ」とお伝えしましたが。
「本来は、良いも悪いもない」のであれば、
「一方だけを観て断罪する」すること自体、良くも悪くもないはずですから。
ニュートラルを説く価値観ほど、やっかいな自己矛盾が生じます。
「物事にとらわれない」ことは、
「物事にとらわれない」こと自体に、とらわれない態度をも指しますが・・・
まるでマトリョーシカのように、際限なく続いていくばかりです。
どんな価値観であっても、価値判断と無縁ではいられないでしょう。