カテゴリー別アーカイブ: ココロのつぶやき

私っていい人ぶってるだけ

「私って、いい人のフリをしているだけ」

私自身、そう思ってた時期もありました。

人前ではいい人を演じているだけで、本当はそんなんじゃない。

後ろめたさが払拭できず、息苦しくなるのですが・・・。

しかし、最近は考えが変わってきました。

「あたくし、そんなおっしゃるほどのいい人間じゃありません」

「いいえ、そうなんです。あたくし、ズルいんです」

小津安二郎監督の名作「東京物語」

原節子さん演じる紀子が、長いまつ毛に影を落としながら、義父にホロリと吐いたセリフです。

急な来訪にもイヤな顔ひとつせず、会社を休んでまで東京見物に付き添い

義母の葬式後、バタバタと帰る義兄・義姉たちを横目に、義父の世話を買ってでる・・・

「おとうさま」

ひまわりが咲く笑顔で、いつも出迎える紀子ですが。

時折みせる憂いな横顔に、狡猾な思いも宿るのでしょうか。

 

1日24時間べったりと、ともにいるのが「自分」という存在。

人と接する時間よりも圧倒的に、舞台裏での時間が長いですよね。

知人の近況に胸を痛め、心から手を差し伸べようとする自分もいれば

その一方で人の失敗を笑う自分。内なる怒りがなかなか収まらない自分も・・・。

バックヤードには、あらゆる感情が出入りします。

本当は黒さも持ち合わせてるけど、人前では無かった風に接してしまう。

それが嘘くさくて・・・。

紀子のよう、自分に厳しめなひとほど、嘘くささをごまかせないのでしょうか。

 

舞台の役者さんは、普段の自分を脇において、与えられた役割を演じきります。

目の前の観客の前で、最高の自分をお見せするためです。

市井に生きる私たちには、人目に触れる場面がそうといえるでしょう。

自分の人生、その舞台のなかで

目の前に相手が現れたとき

出来るだけ「一番イイ自分」を差し出そうとするのは、ごく自然ではないでしょうか。

 

相手の人生と交わった かけがえのない一コマを尊重する

その具体的な手段が

誠実にふるまうことであり、親切であることなのだと私は思います。

 

恐怖を遠ざけながら、追い求める

先日、兵庫県立美術館で開催の「怖い絵展」を観に行きました。

平日昼間なのに、会場は大入り。会場はもちろん、チケット売り場もグッズ販売のレジも行列でした。

本展示会の目玉は「レディ・ジェーン・グレイの処刑」。世界的に有名な作品で、これを観るために、世界各地から英国に集まるそうです。めったに貸し出されない本作品が来日できたことは、まさに奇跡でした。

タイトルからして陰鬱ですが、目に飛び込むのは若き女性の純白のドレス。
(上記の写真は美術館前のパネルで、本作品の一部を切り取ったものです)

歴史によると、その純白のドレスは直後に赤く染まりゆくのですが。

本作品が断首後を描くグロテスクなものであったり、まさに斧を振りかざそうとする直前を描いたのであれば、違う印象を持ったかもしれません。

悲劇の前の静けさが、底知れぬ震えを感じさせました。

 

歯はガタガタと激しく音を立て、心臓の鐘が細胞まで鳴り響く・・・

その時が近づこうとするさまを、観る側に呼び起こさせます。

死は、私たちがイメージする恐怖の最たるものですが。

ちょっとした恐怖は、日常でもたびたび感じます。

あんなことが起こったらどうしよう・・・

もしかして、こんなことが起こるのではないだろうか・・・

未だ起こっていないが、予期するものに対し、怖さが止まらなくなることはあります。

ただし、です。

実際に、体験が起こったあとはどうでしょうか・・・。

 

私たちを恐怖に誘うのはいつも、「未だ」のものです。

想像・・・いや、妄想と言い換えてもいいかもしれません。

予期するものに対して妄想が膨らみ、恐怖は起こりますが。

体験を通り過ぎた後は、別の感情や境地へと移り変わるのです。

人間が抱く最大の恐怖も、恐らくそうでしょう。

まもなく死ぬ・・・ゲートの前が最も震え上がりますが

くぐり抜けたあとは、もう恐怖を抱くこと自体終わりを告げるのです。

 

死ぬか生きるかの限界に、たまらない魅力を感じる・・・。

かつて、F1レーサーのそんな言葉を聴いたことがあったのですが。

恐怖は強ければ強いほど、強烈に呼び覚まされるものがあります。

迫りくる死の恐怖、高鳴る心臓、それは

自分が「今、生きている」鼓動なのです。

 

歴史的大作に描かれたのは、真っ白に輝く生と、やがてそれをも包み込む暗闇。

絵画の前に佇むのは、常に生きている者です。

恐怖が、命を生々しく感じさせる・・・

「怖い絵展」に多くの人が足を運ぶのも、潜在的なものに引き寄せられるからでしょうか。

 

 

あの頃のじぶんが恥ずかしい

恥の多い生涯をおくってきました。

過去を振り返ると、まさに超有名な一文がピッタリです。

世間知らずでした。

履き違えてました。

しかし当時はソレがかっこよくて、正しく思えたのです。

それしかないでしょ? 一点の曇りをなく、アレコレと主張してきた訳ですが。

 

今となっては、赤面が止まりません。

どうして、このことが分からなかったのか

なにゆえに、そこまでこだわっていたのか・・・など

「あの頃のわたしに説教してやる!」

タイムマシンに飛び乗り、月に向かってお仕置きしたいところですが。

これまでの道のりをたどると、あぁどれだけ恥を上塗ってきたでしょう・・・。

自分史なんて、黒歴史の積み重ねにしかみえません。

もう少し、相手の気持ちを考えられなかったのか、と胸が痛むこともたくさんあります。

 

しかし、です。

あの頃の自分を恥じる気持ち・・・たしかに居心地はよくないのですが。

それ自体は、悪いことではないなぁと思うようになりました。

なぜなら、過去の未熟さが分かるということは・・・

もう、その頃の自分ではないからです。

様々な経験を重ね、あの頃は分からなかったことが観えてきます。

少なくても変化を遂げたからこそ、起こる反応ですし。

それは、成長した証拠ともいえないでしょうか。

 

それぞれの”今”に生きる私は、いつでもベストを尽くしています。

自分なりの正しさで、精一杯に熟考して行動しているのです。

それでも。

現代という時代がどうだったのかは 歴史の判断に委ねるしかないように

今の自分も、この先の自分がどう観るのかはわかりません。

これまでも そうだったように

これからも そうでしょう。

後から振り返ると、”アラ”が目立つのでしょうね。

過ぎ去ってしまった自分というのは。

 

あの頃の自分を 恥ずかしく思う気持ち

それは成長の証でもあり、代償でもあるのでしょう。

 

 

◯◯さんのことは分からない

「◯◯さんって、こういう人だなぁ。」

その人と出会い、語り合うなかで、人となりを感じ取っていきます。

好みや嫌がること、その人の考え方やクセ、価値観など。

今まで培ってきた自分の人生データベースと照合することで、自分の中で「◯◯さん」像が肉付けされていきます。

同じ人と何度も何度も接すると、もうその人のことは十全に分かった気になりますが。

それでも、やんわりと釘を指すのです。

「私は、◯◯さんのことは分からない。」

 

例えば、昨日のその人との会話で不愉快な思いが消えないとき。

もしくは、送られてきたメールの内容に少し引っかかったときなど。

頭の中でアレコレ考えあぐねることがあります。

そんな時は、どうでしょう。

今までの記憶をもとに、自分なりの見解を出すのではないでしょうか。

「あの人は、こういう状態に違いない」

「あの人はいつもこうだから、**なのだろう。」

 

しかし、です。

今、自分の記憶の中にいる「◯◯さん」と、今この時をリアルに生きる「◯◯さん」

両者はイコールでしょうか。

心に浮かぶその人の表情、仕草、声その全てがあまりにリアルだったとしても

以前に撮影した、記憶のスクリーン上でしかないからです。

あの人はこうだ - 自分の見立てに間違いなしとしたいところですが。

そこには真実はないのです。

もし真実を問いたいのであれば、現場に行くしかないでしょう。

つまり、生のご本人と直面するということ。

具体的には同じ場所で直接会う、もしくは、電話で同じ時間に語り合うことです。

これは、メールで済ませるのは得策ではありません。

本人不在だと、ついアレコレ妄想をふくらませてしまうのですが。

これが、瑣末な問題をこじらせる原因ではないでしょうか。

 

ただし、あなたに対しても同じです。

「あなたって、コレコレだよね~。」

遠隔操作で、つまりメールやSNSのやりとりの中で、あなたのことを断定されることがありますが。

どんなに、人間について造詣が深いと思われる人からであっても、です。

相手の記憶やイメージによるもので、生のあなたではありません。

 

その人が今ココで発するエネルギー 発する音 直に触れあえる

一期一会のひととき

その人の真実は、リアルにしか存在しないのだ

そう肝に銘じていきたいですね。

 

正しい選択なんて無いけれど

生きることは、選択の連続です。

Aを選んであるき出したばかりなのに、すぐに分かれ道が現れて・・・と。

できれば迷わず、自信を持って選択できればいいのですが。

AかBか、甲乙つけがたい場合は、優柔不断なワタシになります。

早く決めてしまいたい!と焦りがつのるばかりで。

そもそも迷う時間ももったいないし、頭の片隅に居残るのが不快ですし。
頭をグリグリ廻したところで、一旦はどちらかに決めかけるのですが・・・

でも、ファイナルアンサーと言い切れず、また堂々めぐりの渦に飲まれます。

Aを選ぶと、こんなメリット・あんなデメリットがあるのですが。
Bを選んでも、右に同じなのが悩ましい。

「あちらを選んでおけば良かった・・・。」

迷いの色は深まるのは、のちのちの後悔を避けたいからです。

 

そもそも、ですが。

選択に正しい・間違いは、基本的には無いと私は思います。

どれだけ自信をもって選択をしたとしても、しくじることはありますし

消去法で仕方なしに選んだことでも、結果的には胸をなぜおろすこともあります。

そう、選んだ地点では正しいか間違っているかは、まだ決まっていないのです。

「そんなはずでは・・・」

どれだけ熟慮して選んだとしても、自分ではままならない状況に陥ることもありますから。

しかも、です。

「塞翁が馬」のごとく、長いスパンでは良し悪しがひっくり返ります。

短期的には、あぁ選択が間違い無かったと思えたとしても。

数年後では、その選択が災いの元凶に変わることもあります。

だから、選択に100点を求めても仕方がありません。

ただ、一つだけ希望があるとしたら。

もし間違っていたとしても・・・長いスパンでみると、のちのちに活かされる可能性があることです。

人間は成功よりも、失敗の方が学べると言われます。

手痛さとともに「なぜ?」を見つめ直すことで、人生の歩き方が軌道修正されるでしょう。

 

それでも私たちはどうしても、選択に確かなものを求めてしまう。

失敗したくない、損をしたくない、そんな保身が走るからでしょうか。

しかし、どれだけ目を凝らしても、未来は霧に包まれたまま。

クレジット払いが、未来の自分に支払いを任せるように

結局は、その後の自分に委ねるしかありません。

その選択を良いものにすること

例え失敗だとしても 成功の母に結びつけていくこと

それを可能にするのは

選択したあとの未来を歩く あなたでしかないのですから。