生きること 生きていること
産声を上げるところから、人生は始まります。
十月十日で創り上げた身体のシステムが、外界に対応する準備を整えてくれました。
「生きる」
そんな明確な意思を持たずとも、意図的な努力をしなくとも
身体さえ正常に動けば、「生きている」状態を維持してくれます。
この世に生を受け、幾十年ものあいだ
日の出とともに目が覚め、月に見守られ眠りに入るサイクルを続けてきました。
日本のような国で生きていると
句読点のない夢がつづくかのようですが
やはり、それは錯覚だったと気づくときがくるのです。
先日、十年来の友人の告別式に参列しました。
早期発見が難しいタイプのがんで、医者から宣告を受けた地点で、既にステージ4だったそうです。
いつかは死ぬ - そんなことは誰だって百も承知です。
ただ、自分ごととして迫ってこない以上、どこまでもイメージではないでしょうか。
死を霧のかなたにぼかした生と
死の輪郭を内在させた生とは
生きる濃度が 格段と違ってくるのでしょうか。
命の限りが迫ったとき 自分の本質が出ると聞きます。
病を恨まず、明日に希望を持ちつつ、周りには温かい言葉をかけ
彼女は潔く旅立っていきました。
身体のシステムが、次第に動きを弱めていくなかで
彼女は最後まで、毎日毎秒、選らび続けました。
「生きる」
臨終の数日前でしょうか、命があやうくなったものの、一旦この世に戻ってきた彼女。
そこからの日々は、肉体だけを考えると、そのまま逝った方がラクだったかもしれません。
それでも「生きる」ことを選択したのです。
やるべきことをやり抜いた そんな彼女を誇りに思うとともに
やるべきことが残る私に、強いエールを遺してくれたのでした。
「また会おうね。」
いつかは私もこの世を去る
再会に思いを馳せ、彼女に花を手向けました。
私は 生きる
「生」を状態ではなく、行動へ
受動ではなく、能動へ
もっと色鮮やかに 鼓動をふるわせながら
生きる を選びたい
私が吐いた吐息を、どこまでも晴れ渡った空が受け止めてくれたのです。