絵を描くこと 文章を綴ること

ここ数年ですが、絵画を観に行くのがすっかり趣味となった私です。

20代の頃は時折、印象派を中心に、足を運んでました。

しかし30代以降はとんとご無沙汰気味になり、年に1度いくかどうか程度だったのですが。

それが、熱に浮かれたかのよう、絵画愛に目覚めてしまいました。

もう大変です!!

観るだけでは物足りなくて、美術史講座にも出かけるほどに。

中野京子さん著作「怖い絵」シリーズをはじめ、美術関係の書籍もいくつか読んでます。

バックボーンを知って絵画展に出向くと、愉しみに奥行きが広がりましたね。

ミュージアムショップで、グッズを買うのも楽しみで・・・。

もう、絵画愛がありあまっちゃってるのです。

 

そもそも、絵画愛に目覚めたきっかけは何だったのでしょう?

思い当たる節は2016年。

京都市美術館のダリ展で、潜在意識がグラグラに揺らされたことです。

それ以来、美術館めぐりが止まらなくなりました。

しかし、それだけではありません。

数多く、絵画に触れるなかで気づいたことがあります。

私は長年にわたり、何かにつけ文章を書いているのですが。

文章を書く行為と、絵を描く行為と、どこか親和性を感じているのです。

画家は目に映る立体の世界を、1枚の絵で描き切ります。

ありのまま以上の真実を、どう伝えたらいいのだろうか

詳しいことは分かりませんが、あるべき配置を考え、色彩や濃淡、影の落とし方を選び抜くのでしょう。

膨大な時間を費やして、1枚の世界に凝縮させる絵画と同じにするのも恐縮ですが。

私も観て聴いて、手で触った世界のなかから、ある断面を表現します。

「言葉」という筆を使いながら。

その際に腐心するのは、語彙という色使いをどうするかです。

同じ白でも、真っ白とオフホワイトとでは、伝わるものがかなり違うように。

同じ意味あいでも、使う語彙によって、文章の色彩がガラリと変わるからです。

できるだけ忠実に言葉を重ねる行為は、色を重ねながら、よりソレに近づけようとする行為にシンパシーを(勝手に)感じるからでしょうか。

 

素晴らしい絵画を前にすると、どうしようもなく揺り動かされます。

そして具体的にここが、とは言い難いのですが。

絵画展を観る前と後とでは、文章の筆使いが微妙に変わるのです。

真実は絶対的に美しくて、残酷で、正しいものであると

時空を超えて、画家の筆先が問いかけるからでしょうか。