ハンナ・アーレント

本作は、単館ロードショーで大ヒットを飛ばした作品です。

ハンナ・アーレントとは、ドイツ出身のユダヤ人であり、後にアメリカ合衆国に渡り、哲学者として名を残した女性です。主に政治哲学の分野で活躍したと言われています。(Wikipedia参照)

1975年に人生の幕を閉じるまで、師と仰ぐ著名哲学者との不倫関係、2度の結婚、ユダヤ人弾圧から逃れるための米国亡命など波乱な人生を送った女性ですが、この映画では1960年代初頭の彼女に焦点があたっています。

第二次大戦後に逃亡していたナチス幹部アイヒマンが逮捕され、イスラエルにて裁判が行われる際、彼女はアメリカから裁判を傍聴しにやってきます。

その際に雑誌に寄稿した裁判傍聴記が、強烈な批判に晒される様子を中心に描かれた作品です

「悪の凡庸さ」

600万人とも言われるユダヤ人を強制収容所に送った際の輸送責任であったアイヒマンを、哲学者らしい冷徹な視線で、彼の本質を見抜こうとしました。

次に紹介するのは、大学生たちを前に彼女が語った8分間のスピーチの一節です。

彼は検察に反論しました。
『自発的に行ったことは何もない。
 善悪を問わず、自分の意志は介在しない。命令に従っただけなのだ』と。
世界最大の悪は、平凡な人間が行う悪なのです。
そんな人には動機もなく、信念も邪推も悪魔的な意図もない。
(彼のような犯罪者は)人間であることを拒絶した者なのです。

つまり極悪人でもなんでもなく、上からの命令にただ従っただけであった凡庸な人であったこと。
思考停止した凡庸な人たちによって、人類に対する巨大な犯罪がなされたことを論破するレポートでした。

全世界が見守る中、人類共通の悪として極刑を望まれるアイヒマンを「凡庸」と述べるだけで、今でいうところの「大炎上」になることは彼女にも分かりきっていました。

しかも、批判にさらされたのはソレだけではありません。

「ユダヤ人虐殺に手を貸したのは、指導者と言われる同胞の存在である」
この言及が、ユダヤ人たちの逆鱗にふれたのでした。

雑誌に寄稿したのはアイヒマンに関することが大半で、指導者と呼ばれる存在に触れたのはほんの数行だったそうです。

本題でもないので、当時のユダヤ人達の心情を考えると、わざわざ傷口に塩をぬる必要もなかったでしょう。

しかし、彼女は見ぬふりが出来なかったのです。
例えそれで失職の危機に晒されようとも、長年のユダヤ系の友人たちが離れていこうとも。

全体の調和を重んじるがあまり、目をつぶるその姿勢が、自分の中にいる「アイヒマン」と繋がることが分かっているからです。

真実と呼ばれるものの中には、一定数、不都合なものも混じっているのかもしれません。
強制収容所におけるユダヤ人大虐殺に拍車をかけたのは、同胞である指導者の存在。
今では半ば公然たる事実として受け入れられているようですが、当時はまだ戦後の傷跡が残る時期です。

悲惨という言葉では全然足りない、凄惨な日々を生き抜いたユダヤ人たちに突きつけるのはあまりにも酷だったに違いありません。

まるで、イジメやDVといった弱い立場の被害者に対して、ご自身も一因は担っていたと突きつけるようなものでしょう。

それでも、私たちは目を背けてはいけないと、ハンナ・アーレントは問いかけます。

普通に暮らす私たちでも、ほんのささいな人間関係の間で、時として被害者や犠牲者の立場になることもあるでしょう。

こんな酷い目ことを言われて・・・理不尽な目にあわされて・・・一方的に相手を責める気持ちが高まります。

ただ時として、被害者の側に立つ自分にも非が交じっている場合があります。

防衛反応であったり、出来事からのダメージが癒やされてなかったりで、自分の負い目には触れることすら難しいのですが。

そこに触れられないようフタをする、当事者の防衛反応や周りの気遣いが、ありのままの真実にモヤをかけていくのだと私は考えます。

他者や社会だけでなく、自分の中の真実や正義に潜む不都合さ、それを真正面から見つめる誠実さを持つこと。
巨大な悪に繋がるのは、凡庸な人間ひとりひとりであったように・・・。

社会全体の問題への解決の糸口となるのも、凡庸な人間ひとりひとりの「真実への向き合い方」ではないでしょうか。60年以上前に問題定義したハンナ・アーレントの告発は、今の日本にもあまりにも通じる現象でした。

最後に、ハンナのスピーチの中で印象に残ったセリフをお伝えします。

思考ができなくなると、平凡な人間が残虐行為に走る。

私たちは誰しも、アイヒマンになる可能性があることを忘れずにいたいです。